第一巻 上つ巻 第二十帖(二〇)
⦿がこの世にあるならば、こんな乱れた世にはせぬはずぞと申す者沢山あるが、筈には人の言う善も悪もないものぞ。よく心に考えて見よ、何もかもわかりて来るぞ。表の裏は裏、裏の表は表ぞと申してあろが、一枚の紙にも裏表、ちと誤まればわからんことになるぞ、⦿心になれば何もかもハッキリ映りて来るのざ、そこの道理わからずに理屈ばかり申しているが、理屈のない世に、⦿の世にして見せるぞ。言挙(ことあ)げせぬ国とはそのことぞ、理屈は外国のやり方、⦿の臣民言挙げずに、理屈なくして何もかもわかるぞ、それが⦿の真の民ぞ。足許(あしもと)から鳥が立つぞ、鳥立ちてあわてても何にもならんぞ、用意なされよ、上下にグレンと引っくり返るぞ。上の者下に、落ちぶれた民 上になるぞ、岩戸開けるぞ、夜明け近づいたから、早う身魂の洗濯してくれよ、⦿の申すこと千に一つも違わんぞ。六月二十七日、ひつくのか三。
第二巻 下つ巻 第二十帖(六二)
上(うえ)、中(なか)、下(しも) の三段に身魂をより分けてあるから、⦿の世となりたら何事もきちりきちりと面白いように出来て行くぞ。⦿の世とは⦿の心のままの世ぞ、今でも臣民⦿ごころになりたら、何でも思う通りになるぞ。臣民近欲(ちかよく)なから、心曇りているからわからんのぞ。
今度の戦は神力と学力のとどめの戦ぞ。神力が九分九厘まで負けたようになった時に、まことの神力出して、グレンと引っ繰り返して、⦿の世にして、日本のてんし様が世界まるめて治(しろ)しめす世と致して、天地神々様にお目にかけるぞ。てんし様の光が世界の隅々まで行き渡る仕組が三四五の仕組ぞ、岩戸開きぞ。
いくら学力強いと申しても、百日の雨降らすこと出来まいがな。百日雨降るとどんなことになるか、臣民にはわかるまい。百日と申しても、⦿から言えば瞬(またた)きの間ぞ。七月の二十三日、ひつ九の⦿。
第二巻 下つ巻 第三十六帖(七八)
⦿をそちのけにしたら、何も出来上がらんやうになりたぞ。九分(くぶ)通り出来てグレンと引っ繰り返りておろがな、それへも気づかんか。一にも神、二にも神、三にも神ぞ、一にもてんし様、二にもてんし様、三にもてんし様ぞ。この道つらいようなれど貫きてくれよ、だんだんと良くなりて、こんな結構なお道かと申すようにしてあるのざから、何もかもお国にささげて自分の仕事を五倍も十倍も精出してくれよ。戦ぐらい何でもなく終わるぞ。今のやり方ではとことんに落ちてしまうぞ、⦿くどう気つけておくぞ。国々の神さま、臣民さま、改心第一ぞ。八月三日、ひつ九のか三。
第三巻 富士の巻 第七帖(八七)
悪の世であるから悪の臣民世に出てござるぞ、善の世にグレンと引っ繰り返ると申すのは、善の臣民の世になることぞ。今は悪が栄えているのざが、この世では人間の世界が一番遅れているのざぞ、草木はそれぞれに⦿のみことのまにまになっているぞ。一本の大根でも一粒の米でも何でも尊くなったであろが、一筋の糸でも光出て来たであろがな、臣民が本当のつとめしたなら、どんなに尊いか、今の臣民には見当とれまいがな、神が御礼申すほどに尊い仕事出来る身魂ぞ、殊(こと)に⦿の国の臣民みな、まことの光あらわしたなら、天地が輝いて悪の身魂は目あいておれんことになるぞ。結構な血筋に生まれていながら、今の姿は何事ぞ、⦿はいつまでも待てんから、いつ気の毒出来るか知れんぞ。戦恐れているが、臣民の戦くらい何が恐いのざ、それより己の心に巣喰うてる悪のみたまが恐いぞ。八月十六日、⦿のひつくのか三。
第三巻 富士の巻 第二十七帖(一〇七)
⦿の堪忍袋切れるぞよ、臣民の思うようにやれるなら、やりて見よれ、九分九厘でグレンと引っ繰り返ると申してあるが、これからはその場で引っ繰り返るようになるぞ。誰れもよう行かん、臣民の知れんところで何しているのぞ、⦿には何もかもわかりているのざと申してあろがな、早く兜脱いで⦿にまつわりて来いよ、改心すれば助けてやるぞ、鬼の目にも涙ぞ、まして⦿の目にはどんな涙もあるのざぞ、どんな悪人も助けてやるぞ、どんな善人も助けてやるぞ。
江戸と申すのは東京ばかりではないぞ、今のような都会みな穢土(えど)であるぞ。エドはどうしても火の海ぞ。それよりほかやり方ないと⦿⦿(かみがみ)様申しておられるぞよ。秋ふけて草木枯れても根は残るなれど、人民枯れて根の残らぬようなことになりても知らんぞよ、神のこのふみ、早う知らしてやってくれよ。八と十八と五月と九月と十月に気つけてくれよ。
これでこの方の神示の終わりぞ。この神示は『富士の巻』として一つにまとめておいて下されよ、今に宝となるのざぞ。八月の三十日、⦿のひつ九⦿。
第四巻 天つ巻 第四帖(一一一)
この方は元の肉体のままに生き通しであるから、天明にも見せなんだのざぞ、あちこちに人身(じんしん)の肉体かりて予言する⦿が沢山出ているなれど、九分九厘は分りておれども、とどめの最後はわからんから、この方に従いて御用せよと申しているのぞ。砂糖にたかる蟻となるなよ。
百人千人の改心なれば、どんなにでも出来るなれど、今度は世界中、神々様も畜生も悪魔も餓鬼も外道も三千世界の大洗濯ざから、そんなチョロコイことではないのざぞ。ぶち壊し出来ても立て直しわかるまいがな。火と水で岩戸開くぞ、知恵や学でやると、グレンとひっくり返ると申しておいたが、そう言えば智慧や学は要らんと臣民早合点するが、智慧や学も要るのざぞ。悪も御役であるぞ、この道理よく肝(はら)に入れて下されよ。
天の⦿様、地に御降(おんお)りなされて、今度の大層な岩戸開きの指図なされるのざぞ、国々の⦿⦿(かみがみ)様、産土(うぶすな)様、力ある⦿⦿様にも御苦労になっているのざぞ。天照皇太神宮(てんしょうこうたいじんぐう)様初め神々様、篤(あつ)く祀りてくれと申してきかしてあろがな、⦿も仏(ほとけ)もキリストも元は一つぞよ。八月三十一日、ひつ九の⦿。
第四巻 天つ巻 第六帖(一一三)
天(あめ)は天の⦿、地(くに)は地の⦿が治(し)らすのであるぞ、お手伝いはあるなれど。秋の空のすがすがしさが、グレンと変るぞ、地獄に住むもの地獄がよいのぞ、天国ざぞ、逆様はもう長うは続かんぞ、無理通らぬ時世(ときよ)が来たぞ、いざとなりたら残らずの活神(いきがみ)様、御総出(おんそうで)ざぞ。九月の一日、ひつ九のか三。
第五巻 地つ巻 第六帖(一四三)
⦿の国八つ裂きと申してあることいよいよ近づいたぞ、八つの国、一つになりて⦿の国に攻めて来るぞ。目覚めたらその日の生命(のち)お預かりしたのざぞ、⦿の肉体、⦿の生命 、大切せよ。⦿の国は⦿の力でないと治まったことないぞ、⦿第一ぞ、いつまで卍(仏)や十(キリスト)や九(いろいろなもの?)にこだわっているのざ。出雲の⦿様大切に、有り難くお祀りせよ、尊い⦿様ぞ。天つ⦿、国つ神、みなの⦿⦿(かみがみ)様に御礼申せよ、まつろいて下されよ、結構な恐い世となりて釆たぞ、上下(うえした)グレンぞ。九月十七日、一二⦿。
第六巻 日月の巻 第二十三帖(一九六)
一升桝(しょうます)には一升しか入らぬと臣民思うているが、豆一升入れて粟(あわ)入れること出来るのざぞ。その上に水ならばまだはいるのざぞ。⦿ならばその上にまだいくらでも入るのざぞ。⦿がうつりたら人が思わぬこと出来るのざぞ。今度は千人力与えると申してあろが。
江戸の仕組、世の終わりぞ。天拝(おろが)めよ。地(つち)拝めよ。まつわれよ。秋の空グレンと申してあろがな。冬も春も夏も気つけてくれよ。十一月十三日、ひつ九か三。
第六巻 日月の巻 第二十七帖(二〇〇)
⦿の国は生きているのざぞ、国土拝(くにつちおろが)めよ、⦿の肉体ぞ。⦿の魂(たま)ぞ。道は真直ぐとばかり思うなよ、曲って真っ直ぐであるぞ、人の道は無理に真っ直ぐにつけたがるなれど、曲っているのが⦿の道ぞ。曲って真っ直ぐいくのざぞ。人の道も同じであるぞ。足許から鳥立つぞ。いよいよが近づいたぞ。世の元と申すものは泥の海でありたぞ。その泥から⦿がいろいろのもの一二三で、息吹で生みたのぞ。人の智ではわからぬことざぞ。眼は丸いから丸く見えるのざぞ。この道理わかりたか。一度はドロドロにこね廻さなならんのざぞ。
臣民はどない申しても近慾(ちかよく)ざから、先見えんから欲ばかり申しているが、⦿は持ち切れないほどの物与えているでないか。いくら貧乏だとて犬猫とはケタ違うがな。それで何不足申しているのか。まだまだ天地へ取上げるぞ。日々(にちにち)取上げていることわからんか。⦿が大難を小難にして、神々様御活動になっていること目に見せてもわからんか。天地でんぐり返るぞ。やがては富士晴れるぞ。富士は晴れたり日本晴れ。元の⦿の世にかえるぞ。
「日の巻」終りて「月の巻」に移るぞ。いよいよ一二三が多くなるから、今までに出していた神示よく肝に入れておいてくれよ、知らせねばならず、知らしては仕組成就せず、臣民早よう洗濯して鏡に映るようにしてくれよ。今の世地獄とわかっているであろがな。今のやり方悪いとわかっているであろがな。⦿まつれと申すのぞ。外国には外国の神あると申してあろが。御戦(みいくさ)進めて外国に行った時は、まずその国の神まつらねばならんぞ、まつるとはまつろうことと申してあろが。鉄砲や智では悪くするばかりぞ。神まずまつれとくどう気つけてあるのは日本ばかりではないぞ。この方の申すこと、小さく取りては見当取れんと申してあろがな。三千世界のことぞ。世界のことぞ、日本ばかりが可愛いのではないぞ、世界の臣民皆わが子ぞ。分け隔(へだ)てないのざぞ。この神示読みて聞かしてくれよ。読めば読むほど明るくなるぞ。富士晴れるのざぞ。⦿の心晴れるのざぞ。あら楽(たぬ)し世ぞ。十一月二十三日、一二⦿。
第六巻 日月の巻 第二十八帖(二〇一)
岩戸あけたり日本晴れ、富士光るぞ。この巻役員読むものぞ。世の元と申すものは火であるぞ、水であるぞ。くも出てクニとなったぞ。出雲とはこの地(くに)のことぞ。スサナルの神はこの世の大神ぞ。始めは@(ウヅ)であるなり、@(うご)いて月となり地となりたのざぞ。
アは@(ヒツキクニ)の神様なり、〇ワヤ(ヨ)は月の神様ぞ、クニの神様はスサナルの神様ぞ。このこと始めに心に入れれば掃除他愛(たあい)ないぞ、グレンとは上下(うえした)かえることと申してあろうがな、言うてならぬことぞ。言わねばならぬことぞ。アメの⦿つ九の⦿。
第七巻 日の出の巻 第二十帖(二三三)
この度は世に落ちておいでなされた⦿⦿(かみがみ)様をあげねばならぬのであるぞ、臣民もその通りざぞ、⦿の申す通りにすれば何事も思う通りにスラスラと進むと申してあろがな。これからは⦿に逆らうものは一つも埓(らち)あかんぞ、やりてみよれ、九分九厘でグレンざぞ。⦿の国はどうしても助けなならんから、⦿が一日(ひとひ)一日と延ばしていることわからんか。皆の者が⦿を軽くしているからお蔭なくなっているのざぞ、世の元の神でも御魂(みたま)となっていたのでは真(まこと)の力出ないのざぞ。今度の経綸(しぐみ)は世の元の生き通しの⦿でないと間に合わんのざぞ。何処(どこ)の教会でも元はよいのであるが、取次役員がワヤにしているのぞ、今の様(さま)は何ごとぞ。
この方は力あり過ぎて失敗(しくじ)った⦿ざぞ、この世構う⦿でも我(が)出すと失敗るのざぞ、どんな力あったとて我出すまいぞ、この方がよい見せしめぞ。世界構うこの方さえ我で失敗ったのぞ、くどいようなれど我出すなよ、慢心と取違いが一等気障(きざわ)りざぞ。改心チグハグざから物事後先(あとさき)になりたぞ、経綸少しは変るぞ。今の役員、⦿の道広めると申して我(われ)を広めているでないか、そんなことでは役員とは言わさんぞ。今までは⦿が世に落ちて人が⦿になりておりたのぞ、これでは世は治まらんぞ。神が上(かみ)で、臣民、臣民で下におらねばならんぞ。吾(われ)が苦労して人救う心でないと、今度の岩戸開けんのざぞ、岩戸開きの御用する身魂は、吾の苦労で人助けねばならんのざ。
十年先は、五六七(みろく)の世ざぞ、今の人間、鬼より蛇より邪見ざぞ、蛇の方が早う改心するぞ、早う改心せねば泥海にせなならんから、⦿は日夜の苦労ぞ。道は一つと申してあろがな、二つ三つ四つあると思うてはならんぞ、足元から鳥立つと申してあろが、臣民火がついてもまだ気づかずにいるが、今に体に火ついてチリチリ舞いせなならんことになるから、⦿、くどう気つけておくのざぞ。三四気つけてくれよ、⦿の国は⦿の力で何事も思うように行くようになりているのに、学や智に邪魔されている臣民ばかり、早う気づかぬと今度という今度は取返しつかんぞ。見事なこと⦿がして見せるぞ、見事なことざぞ、人間には恐しいことざぞ、大掃除する時は棚のもの下に置くことあるのざぞ、下にあったとて見下げてはならんぞ。
この神は⦿の国の救われること一番願っているのざぞ、外国人も⦿の子ではあるが性来(しょうらい)が違うのざぞ、⦿の国の臣民が真(まこと)の⦿の子ざぞ、今は曇りているなれど、元の尊い種植えつけてあるのざぞ、曇り取り去りてくれよ、依怙(えこ)のようなれど外国は後まわしぞ、同じ⦿の子でありながら⦿の国の臣民の肩持つとは公平でないと申す者あるなれど、それは昔からの深い経綸であるから臣民にはわからんことであるぞ、一に一足す二でないと申してあろが、何事も⦿の国から⦿の民(たみ)からぞ、洗濯も同様ざぞ。今度の御用外(はず)したら、いつになりても取返しつかんことになるのざから、心して御用してくれよ、やり損ない出来ないことになりているのざぞ。天に一柱、地に一柱、火にも焼けず水にも溺(おぼ)れぬ元の種、隠しておいてのこの度の大立て替えぞ、どんなことあっても人間心で心配するでないぞ、細工は流々(りゅうりゅう)、仕上げ見てくれよ、この⦿はめったに間違いないぞ。三千年地に潜(もぐ)りての経綸で、悪の根まで調べてからの経綸であるから、人間どの心配せずに、⦿の申すよう素直に致して下されよ。
末法の世とは地の上に大将の器(うつわ)無くなりていることざぞ。オロシヤの悪と申すのは泥海の頃から生きている悪の親神であるぞ。北に気つけてくれよ、日本の国は結構な国で、世界の元の、真中の国であるから、悪神が日本を取りて末代の住居(すまい)とする計画で、トコトンの智恵出して、どんなことしてもするつもりで、いよいよを始めているのざから、よほど褌(ふんどし)締めて下されよ、日本の上に立ちている守護神にわかりかけたらバタバタに埓あくぞ。早う改心してくれよ。十二月二十六日、一二⦿。
第八巻 磐戸の巻 第三帖(二三九)
富士は晴れたり、日本晴れ、ビックリ箱愈々(いよいよ)となりたぞ。春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケて、ハルマゲドンとなるのぞ、早う改心せんとハルマゲドンの大峠越せんことになるぞ。大峠となりたらどんな臣民もアフンとして物言えんことになるのざぞ、なんとした取違いでありたかと地団駄(じだんだ)踏んでも、その時では間に合わんのざぞ、十人並のことしていては今度の御用は出来んのざぞ。逆様(さかさま)にかえると申してあろが、大洗濯ざぞ、大掃除ざぞ、グレンざぞ、富士に花咲くぞ。一月一日、⦿のひつ九か三。
第八巻 磐戸の巻 第十三帖(二四九)
コト違うから、精神違うから、違うことになるのざぞ、コト正しくすれば、正しきこととなるのざぞ。⦿(ニホン)の国は⦿(モト)の⦿(カミ)の血筋の混じり気のないミタマで、末代(まつだい)世治めるのぞ。何事も末代のことであるから、末代動かん世に定めるのざから、大望であるぞ。上の守護人、このままで何とかかんとか、行けるように思うているが、その心我(わ)れ善(よ)しざぞ。今度は手合わして拝むばかりでは駄目ざと申してあろが、今度は規則決まりたら、昔より難しくなるのざぞ、曲げられんことになるのざぞ、⦿魂(かみたましい)の臣民でないと⦿の国には住めんことになるのざぞ。この世治めるのは地(ち)の先祖の生⦿(いきがみ)の光出さねば、この世治まらんのざぞ、今度はトコトン掃除せねば、少しでも混じり気ありたら、先になりて また大きな間違いとなるから、洗濯々々とくどう申しているのぞ。
⦿は一時は菩薩(ぼさつ)とも現われていたのざが、もう菩薩では治まらんから、愈々生神の性来現わしてバタバタに埒(らち)つけるのざぞ、今の学ある者、大き取り違い致しているぞ。大国常立尊大神(おおくにとこたちのみことおおかみ)と現われて、一時は天も構い、地の世界は申すに及ばず、天へも昇り降(くだ)りして、⦿ (モト)の⦿(ニホン)の⦿(カミ)の光りクッキリ現わさなならんと仰せあるぞ。
早う洗濯せんと間に合わんぞ。この道の役員、吾(われ)は苦労して人助けるのざぞ、その心でないと我(が)出して吾のこと思うているとグレンざぞ。神も仏もキリストも何もかもスッカリと救わねばならんのぞ、殺して救うのと、生かして御用に使うのとあるぞ、今度はハッキリ区別するのざぞ、昔の因縁ざぞ。この方のもとに参りて、昔からの因縁、この先のことよく聞いて得心出来たら、肚の底から改心してマコトの御用結構につとめあげてくれよ。逃げ道つくってはならんぞ、二つ三つ道つくってはならんぞ。まっすぐに⦿の道に進めよ。⦿の道は一筋ざと申してあろが。何なりとそれぞれの行せねばマコトのことは出来んのざぞ。
世界の片端浜辺(かたはしはまべ)から愈々(いよいよ)が始まると知らしてあること近うなりたぞ、くどいようなれど、さっぱりと洗濯してくれよ、⦿の国は⦿のやり方でないと治まらんから、今までの法度(はっと)からコトから、やり方変えて、今まではやりかた違っていたから、⦿のお道通りに致しますと心からお詫びせねば、するまで苦しむのざぞ、この苦しみは筆にも口にもないようなことに、臣民の心次第でなるのざから、くどう申しているのざぞ。
何もか彼も⦿に捧げよ、てんし様に捧げよと申してあろがな、それが⦿国の民の心得ぞ、否(いや)でも応でもそうなって来るのざぞ。⦿国の政治経済は一つざと申してあろうがな、今の臣民にわかるように申すならば、臣民働いてとれたものは、何でも⦿様に捧げるのぞ、⦿の御社(みやしろ)は幸(さち)で埋(うず)もれるのざぞ、御光(みひかり)輝くのざぞ、光の町となるのざぞ。⦿から分けて下さるのざぞ、その人の働きによって、それぞれに恵みのしるし下さるのざぞ、それがお宝ぞ、お宝、徳相当に集まるのざぞ、金(きん)は要らんと申してあろがな、元の世になるまでにそうしたことになって、それからマコトの⦿の世になるのざ。⦿の世はマツリあるだけぞ、それまでにお宝下さるのざぞ、お宝とは今のお札(さつ)のようなものざぞ。わかるように申すなら、⦿の御社と臣民のお役所と市場と合わしたようなものが、一時は出来るのざぞ、嬉し嬉しとなるのざぞ、真(まこと)のマツリの一(はじめ)ざぞ。
このことよく肚に入れて、一二三(ひふみ)として説いて、早う上(うえ)の守護人殿にも、下の守護人殿にも知らして、安心さして、勇んで暮すようにしてやりて下されよ。それも臣民の心次第、素直な人、早う嬉しくなりて、心勇むぞ、寂しくなりたら訪ねて御座れと申してあろがな。一月十三日、⦿の一二か三。
第九巻 キの巻 第二帖 (二五九)
神示(ふで)読めば何もかもわかるようになりていることわからぬか、尾張の御用、御苦労であったぞ、奥の奥のこと仕組通りになりている、臣民心配するでないぞ、一の宮は桜咲く所へ造れよ、わかりたか、天之日津久神奉賛会(あめのひつくのかみほうさんかい)でよいぞ、オホカムツミの神と申しても祀(まつ)りくれよ、祭典(まつり)、国民服(※)の左の胸に八垂(やたれ)のシデ二本つけて、絹のシデつけて当分奉仕してよいぞ。道場は一の宮と一つ所でよいぞ、イイヨリの御用、タニハの御用御苦労であったぞ。
皆の者愈々(いよいよ)ざぞ、今から弱音では何も出来んぞ、春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケて、ハルマゲドンと申してあろが、愈々ざぞ、褌(ふんどし)しめよ、グレンざぞ。二月二十六日、ひつ九のか三。
(※戦時中に着用した成人男子の洋服)
第九巻 キの巻 第八帖 (二六五)
今までして来たことが、なるほど天地の⦿の心に背(そむ)いているということ心からわかりて、心からお詫びして改心すれば、この先末代身魂をかまうぞ、借銭負うている身魂は、この世にはおいてもらえんことに規則定まったのざぞ、早う皆に知らしてやれよ。
タテコワシ、タテナホシ、一度になるぞ、立て直しの世直し早うなるも知れんぞ、遅れるでないぞ。立て直し急ぐぞ、立て直しとは元の世に、⦿の世に返すことざぞ、元の世と申しても泥(どろ)の海ではないのざぞ、中々に大層なことであるのざぞ。上下(うえした)グレンと申してあることよく肚に入れてくれよ。三月十一日、ひつぐの⦿。
第十巻 水の巻 第十四帖(二八八)
今までは闇(やみ)の世であったから、どんな悪いことしても闇に逃れること出来てきたが、闇の世はもう済みたぞ。思い違う人民沢山あるぞ。どんな集いでも大将は皆思い違うぞ。早うさっぱり心入れ換えて下され。⦿(かみ)の子でないと⦿の国には住めんことになるぞ。外国へ逃げて行かなならんぞ。二度と帰れんぞ。幽界(がいこく)行きとならぬよう、根本から心入れ替えてくれよ。日本の国の臣民皆兵隊さんになった時、一度にドッと大変が起るぞ。皆思い違うぞ。カイの御用はキの御用ぞ。それが済みたら、まだまだ御用あるぞ。
行けども行けども草ぼうぼう、どこから何が飛び出すか、秋の空グレンと変るぞ。この方化(ば)けに化けて残らずの身魂(みたま)調べてあるから、身魂の改心なかなか難しいから、今度という今度は天の規則通り、ビシビシと埒(らち)つけるぞ。
御三体の大神様、三日この世を構いなさらぬと、この世はクニャクニャとなるのざぞ。結構近づいているのざぞ。大層が近づいているのざぞ。この神示読みて神々様にも護護神殿にも聞かせてくれよ。いよいよ天の日津久(ひつく)の神様、御憑(おんか)かりなされるぞ。旧五月五日、三のひつ九か三。
第十一巻 松の巻 第九帖(三〇〇)
悪のやり方は始めはどんどん行くなれど、九分九厘でグレンぞ、善のやり方、始め辛いなれど、先行くほどよくなるぞ。この世に何一つ出来んと言うことないこの方のすることぞ。言うこと聞かねば、聞くようにしてきかすぞ。因縁だけのことはどうしてもせねば、今度の峠は越せんのざぞ。ここの役員は皆因縁身魂ばかり、苦労しただけお蔭あるぞ。六月二十(四)日、アメのひつ九のか三、しるす。
第十三巻 雨の巻 第九帖 (三四三)
⦿の智と学の智とは、始めは紙一重であるが先に行くほどンプ(?)出来て来て天地の差となるぞ、⦿の⦿の薬のやり方、悪の⦿の毒のやり方となるぞ、⦿の御用が人の御用ぞ、人の御用が⦿の御用であるなれど、今の臣民 ⦿の御用するのと人の御用するのと二つに分けているが、見苦しき者にはこれからは御用致させんことに決まりたから気つけておくぞ。
何事も順正しくやりて下されよ、⦿は順であるぞ、順乱れたところに、⦿の能(はたらき)現われんぞ。何もせいで善きことばかり待ちていると物事後戻りになるぞ、⦿の道には後戻りないと申してあろがな、心得なされよ、一(はじめ)の火消えているでないか、まだわからんか、都会へ都会へと人間の作った火に集まる蛾(が)のような心では今度の御用出来はせんぞ、表面(うわつら)飾りて誠のない教えのところへは人集まるなれど、誠の道伝えるところへは臣民なかなか集まらんぞ、見て御座れよ、いくら人少なくても見事なこと致して御目にかけるぞ、縁ある者は一時(いちじ)に⦿が引き寄せると申してあろうがな、人間心で心配致してくれるなよ。
目眩(めまい)する人も出来るぞ、(ふんのびる人も沢山に出来て来るぞ、)行けども行けども白骨ばかりと申してあろうがな、今のどさくさにまぎれて悪魔はまだえらい仕組致して上にあがるなれど、上にあがりきらんうちにグレンぞ、せめて三日天下が取れたら見物(みもの)であるなれど、こうなることは世の元からわかっているのであるから、もう無茶なことは許さんぞ。軽い者ほど 上に上に上がって来るぞ、仕組通りなっているのざから、臣民心配するでないぞ。今度⦿の帳面から除かれたら永遠(とことわ)に世に出ること出来んのであるから、近慾(ちかよく)に目くれてせっかくのお恵みはずすでないぞ、⦿気つけておくぞ。人の苦しみ見て、それ見たことかと申すような守護神に使われていると気の毒出来るぞ。
世立て替えて先のわかる世と致すのぢゃぞ、三S(さんエス)の神宝(かんだから)と、3S(スリーエス)の神宝とあるぞ、毒と薬で裏腹であるぞ。五と五では力出んぞ、四と六、六と四、三と七、七と三でないと力生れんぞ、力生れるから、カラ(カス?)出来るのぞ、カラ掃除するのが⦿の大切な仕事ぞ、人民もカスの掃除すること大切な御役であるぞ、毒と薬と薬と毒で御座るぞ、搗(つ)きまぜてこねまぜて、天晴(あっぱ)れこの世の宝と致す仕組ざぞ、わかりたか。一方の3Sよりわからんから、人民 いつも悪に落ち込むのぢゃ、この道は中行く道と申して知らしてあろうがな、力余ってならず、力足らんでならず、しかと手握りてじっと待っていて下されよ、誠の教えばかりでは何もならんぞ、皆に誠の行(おこな)い出来んとこの道開けんぞ、理屈申すでないぞ、いくら理屈立派であっても行い出来ねば悪であるぞ、この世のことは人民の心次第ぞ。十一月二十七日、ひつ九のか三。
第十三巻 雨の巻 第十五帖(三四九)
四八音(ヨハネ)世に出るぞ、五十音(イソネ)の六十音(ムソネ)と現われるぞ、用意なされよ。それまでにさっぱり変ええてしもうぞ、天も変るぞ地(つち)も変るぞ。この方等(ほうら)が世立て直すと申しても、この方等が世に出て威張(いば)るのでないぞ、世立て直して世は臣民に任せてこの方等は隠居ぢゃ、隠れ身ぢゃぞ。地から世持ちて嬉し嬉しと申すこと楽しみぞ、(子供よ、)苦しい親の心よく汲み取りてくれよ。この神示読まいでやれるならやりてみよれ、彼方(あちら)でコツン、此方(こちら)でくずれぢゃ、大事な仕組早う申せば邪魔入るし、申さいではわからんし、何にしても素直に致すが一番の近道ざぞ、素直になれんのは小才(こさい)があるからざぞ。鼻高ぢゃからざぞ。
⦿の国は神の⦿のやり方あると申してあろううがな、善きは取り入れ、悪きは捨てて、皆気つけ合って⦿の国は⦿の国ぢゃぞ、金は金ぢゃ、銀は銀ぢゃぞと申してあろがな、盲ならんぞ、カイの御用もオワリの仕組も、何もかも裏表あるのざぞ、裏と表の外(ほか)に裏表あるぞ、ウオヱであるぞ、アとヤとワざぞ、三つあるから道ざぞ。
神前に向って大きく気を吸い、肚に入れて、下座(しもざ)に向って吐き出せよ、八度(やたび)繰り返せよ、⦿のキ頂くのざぞ、キとミとの合いの霊気頂くのざぞ。一二三(ヒフミ)がヨハネとなり五十連(イスラ)と成りなって十二の流れとなるのざぞ、ムがウになるぞ、ンになるぞ、ヤとワと掘り出して十二の流れ結構ざぞ。知らしてあろうがな、これまでの考え方やり方致すなら立て替えではないぞ、何も彼も上中下(うえなかしも)すっかりと立て替えるのざぞ、外国は龍宮の乙姫様、グレンと引っくり返しなさるのざぞ、龍宮の乙姫様、雨の神様の御(おん)活動烈(はげ)しきぞ。今度次の大層が出て来たらいよいよざぞ。最後のとどめざぞ、今度こそ猶予(ゆうよ)ならんのざぞ、キリキリであるから用意なされよ、三、四月気つけよ、キ切れるぞ。
信心なき者ドシドシ取り替えるぞ、この中、誠一つに清め下されよ、天明まだまだざぞ、世の元の型まだまだざぞ、⦿の仕組成就せんぞ、⦿人共にと申してあろがな、⦿厳しきぞ、ぬらりくらりぬるくって厳しきぞと申してあろうがな。役員多くなくても心揃えて胴すえておりて下されよ、⦿がするのであるから、この世に足場作りておりて下されよ、⦿無理申さんぞと申してあろうがな、けれどもちっとも気許しならんのざぞ。身魂相当に皆させてあろうがな、掃除早うせよ、己の戦まだ済んでいないであろうが、洗濯掃除早う結構ぞ。
この方の神示元とわかりながら他(た)の教えでこの道開かんとて開けはせんのざぞ、鏡曇っているから曲って写るのざぞ、一人の改心ではまだまだぞ、一家揃って皆改心して手引き合ってやれよ、外国人も日本人もないのざぞ、外国外国と隔(へだ)て心(ごころ)悪ぢゃぞ。十二月十九日、一二⦿。
第十五巻 岩の巻 第二帖(三六七)
三千年の昔に返すと申してあろうがな。よい御用いたす身霊(みたま)ほど苦労さしてあるのぢゃ。他から見てはわからんなれど、苦労に苦労さして、生き変り死に変り、鍛えに鍛えてあるのぢゃぞ。肉体の苦労も、霊(たま)の苦労も、どちらの苦労にも、負けん人民臣民でないと、目先のことで、グレングレンと引っくり返りて、あわてふためくようなことでは、どんなことあってもビクともせん身魂でないと、御用難しいぞ。
こんどの苦の花は富士に咲くのみざぞ。不二に木(こ)の花開耶姫(はなさくやひめ)祀れと申してあろうが、木の花、おのもおのもの心の富士にも咲くのざぞ。木の花咲けば、この世に出来んことないぞ。まことの@(かみ)かかりぞ。
この先もう立て替え出来んギリギリの今度の大立て替えぢゃ。いよいよの立て替えざから、元の⦿代(よ)よりも、も一つキの光り輝く世とするのぢゃから、なかなかに大層ざぞ。人民 苦しかろうが、先楽しみに御用見事つとめ上げて下されよ。二つずつある⦿様を一つにするのであるから、嘘偽(うそいつわり)ちっともならんのぢゃ。少しでも嘘偽あったら、曇りありたら、⦿の国には住めんことになるのざぞ。
途中から出来た道では今度という今度は間に合わんのざぞ。根本からの道でないと、今度は根本からの立て直しで末代続くのぢゃから、間に合わん道理わかるであろうがな。
我(われ)の国どうしの戦(いくさ)始まるのぢゃ。この戦、神は目あけて見ておれんなれど、これも道筋ぢゃから、人民にも見ておれんのぢゃが、共喰いと申して知らしてあろうが。
この方等(ほうら)が天地自由にするのぢゃ。元のキの道にして、新しき、キの光の道つくるのぢゃ。あら楽し世にするのぢゃと申してあることいよいよぞ、人民、臣民 勇んでやりて下され。⦿⦿様、守護神どの、勇め勇め。二月十六日、ひつ九⦿。
第十五巻 岩の巻 第十帖(三七五)
わからん身魂も今までは機嫌取って引っ張りて来たなれど、もう機嫌取りは御免ぢゃ。こんなことに長うかかりていたなら掃除が遅れるから、ひときりにいたすぞ。
⦿代(かみよ)となれば天は近くなるぞ、⦿人共にと申してあろうがな。一人となりても、⦿の申すことならば、ついて来る者が誠の者ざぞ、誠の者少しでも今度の仕組は成就するのざぞ、人はたきさんには要らんのざぞ。信者引っ張ってくれるなよ。道は伝えて下されと申してあろうがな。
龍宮の乙姫殿のお宝、誰にもわかるまいがな。ビックリ箱の一つであるぞ。北がよくなる、北が光るぞ、北が一番によくなると申してあることだんだんにわかりて来るのざぞ。これほどに申してもまだ疑う人民沢山にあるなれど、⦿も人民さんには一目(いちもく)置くのぞ、閉口ぞ、よくもまあ曇ったものぢゃなあ、疑うなら今一度我(が)でやって見よれ、それもよいぞ、あちらこちらにグレングレンとどうにもならんのざぞ。
人民には見当取れん大きな大きな大望(たいもう)ざから、その型だけでよいからと申しているのぢゃ、型して下されよ。改心の見込ついたら、世の元からの生神が、おのおのにタマ入れてやるから、力添え致してやるから、せめてそこまで磨いて下されよ。悪は伸びるのも早いが、枯れるのも早いぞ。いざとなればポキンぞ。花のまま枯れるのもあるぞ。二月十六日、一二の⦿。
第二十一巻 空の巻 第十三帖(四六八)
我(われ)が勝手に解訳してお話して、⦿の名汚さんようにしてくれよ、曇りた心で伝えると、曇りて来るくらいわかりおろうがな、神示通りに説けと申してあろうが、忘れてならんぞ。履物(はきもの)も今に変わって来るぞ、元に返すには元の元のキの混じり気のない身魂と入れ替えせねばならんのぢゃ、「 ・ 」(たま)が違っているから世界中輪になっても成就せん道理分るであろうがな、一度申したことはいつまでも守る身魂でないと、途中でグレングレンと変るようでは御用つとまらんぞ、人力屋、酒屋、料理屋、芸妓(げいこ)屋、娼妓(しょうぎ)、無く致すぞ、世潰すもとざぞ、菓子、饅頭(まんじゅう)も要らんぞ、煙草もクセぞ、善き世になったら別の酒、煙草、菓子、饅頭出来るぞ、勝手に造ってよいのざぞ、それ商売にはさせんぞ。
旧五月五日からの礼拝の仕方書き知らすぞ。
朝は大神様には一拝、二拝、三拝、八拍手。
ひふみゆらゆら、ひふみゆらゆら 々々 、ひふみゆらゆら 々々、々々 。ひふみ祝詞のりてから、「御三体(ごさんたい)の大神様 弥栄(やさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ、天(あめ)の日月(ひつく)の大神様弥栄ましませ弥栄ましませ、地(くに)の日月の大神様弥栄ましませ弥栄ましませ」八拍手。「御三体の大神様」七回のれよ。終りて大神様のキ頂けよ、八拍手一拝二拝三拝せよ。夜は同じようにして、ひふみ祝詞の代わりにいろは祝詞のれよ。三五七に切りて、手打ちながら、ひふみ祝詞と同じようにのりて結構ぞ。
昼は大地に祈れよ、黙祷(もくとう)せよ。時により所によりてしばし黙祷せよ。お土の息頂けよ、出来れば裸足になってお土の上に立ちて目をつむりて足にて呼吸せよ、一回、二回、三回せよ。
神々様には二拝四拍手。「ひふみゆらゆら、ひふみゆらゆら、々々、ひふみゆらゆら、々々、々々 」唱え、天(あめ)の数歌(かずうた)三回唱え、「神々様弥栄(やさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ」とのりて四拍手せよ。誓(ちか)いは時によりてよきにせよ。
霊(たま)の宮には一拝二拍手、天の数歌一回、「弥栄(やさか)ましませ弥栄(いやさか)ましませ」二拍手一拝、でよいぞ、ひふみゆらゆら要らんぞ、誓いはその時々によりてよきにせよ。各々の先祖さんには今までの祝詞でよいぞ。
当分これで変らんから、印刷してよくわかるようにして、皆の者に分けて取らせよ、弥栄に拝(おろが)みまつれよ。三月三日、ひつ九の⦿、しるす。
第二十二巻 青葉の巻 第十帖(四七九)
善き⦿(かみ)には善き御用、悪き⦿には悪き御用、自分で自分がつとめ上げるのぢゃ、人になんと言われても腹の立つようでは御用難しいぞ、腹立つのは慢心からぢゃと申してあろうがな。仕組途中でグレンと変り、カラリと変る仕組してあるのぢゃ、そこに一厘の仕組、火水(かみ)の仕組、富士と鳴門の仕組、結構々々大切致してあるのぢゃ。仕組変わり変わりて人民にはわからんなり、善き世と致すのぢゃ、いくら智あっても人間心では出来ん仕組ぞ、智捨てて⦿にすがりて来ねばわからん仕組ぢゃ、と言うて人間世界は人間の智いるのぢゃ、智でない智を⦿が与えるぞ、⦿人共にと申してあろうがな、つとめ上げたら他にない結構な御用。八月三日、ひつ九⦿。
第二十三巻 海の巻 第十帖(五〇二)
この方(ほう)、悪⦿(あくがみ)、祟神(たた)り⦿(がみ)と人民に言われてトコトン落されていた⦿であるぞ、言われるには言われるだけのこともあるのぢゃ、この方(ほう)さえ改心いたしたのであるぞ、改心のお蔭でこのたびの御用の立役者となったのぢゃぞ、誰によらん改心致されよ。改心とは まつろうことぞ、中行くことぞ、わかりたか。今度は十人並のお蔭くらいでは誠の信心とは申されんぞ、千人万人のお蔭を取りて下されよ、千人力与えると申してあろうが、大事な御先祖様の血統を皆世に落してしもうて無きものにしてしもうて、途中からの替え身魂を、渡りて来た身魂を、まぜこぜの世と致して、今の有り様は何ことぞ、まだわからんのかなあ、人民もぐれんぞ。八月二十三日、一二⦿。
第二十六巻 黒鉄の巻 第二十四帖(六四二)
悪とは影のことであるぞ。斜めに光を頂くから影出来るのぢゃ。影は主人でないぞ。絶対は何と申しても絶対ぞ。相対から神を求めると、相対の神が顕(あら)われるぞ。相対で神の道に導くこと中々ぢゃ。必ず後戻り、わかりはせんぞ。この神示、肚に入ったらグレンと変りて来るぞ。早う肚に入れて下されよ。間に合わん。天の声は内から聞こえて来る。人間の言葉は外から聞こえて来る。霊耳(れいじ)と申すのは内からぞ。耳ふさいでも聞こえて来るのぢゃ。悪霊自身は自身を悪と思うてないぞ。(一月二十二日)
補巻 月光の巻 第四十八帖(八三五)
世界中を泥の海にせねばならんところまで、それより他に道のないところまで押し迫って来たのであるが、なお一厘の手立てはあるのぢゃ。大神様にお詫び申してすっかり心を改めて下されよ。神々様も人民様も心得 (こころえ)ちがい多いぞ。泥の海となる直前にグレンと引っくり返し、ビックリの道あるぞ。
五十黙示録 第一巻 扶桑之巻 第一帖
東は扶桑(ふそう)なり、日(⦿)出(い)づる秋(とき)は来にけり。この巻、扶桑の巻、続く六の巻を合せて七の巻、一百四十四帖の黙示を五十黙示(いせもくじ)と申せよ。
イシもの言うぞと申してありたが、イセにはモノ言うイシがあると昔から知らしてあろうがな、五のイシがもの言うのであるぞ、開けば五十となり、五百となり、五千となる。握れば元の五となる、五本の指のように一と四であるぞ、この方(ほう)を五千の山に祀れと申してあろうが、これがイチラ(五千連)ぞ、五十連(イツラ)ぞ、わかりたか、五十連 世に出るぞ。
天に神の座あるように、地には人民の座があるぞ、天にも人民の座があるぞ、地に神の座があるぞ。七の印(しるし)と申してあるぞ、七とはモノのなることぞ、天は三であり、地は四であると今までは説かせてあったなれど、いよいよ時節到来して、天の数二百十六、地の数一百四十四となりなり、伊邪那岐(イザナギ)三となり、伊邪那美(イザナミ)二となりなりて、ミトノマグワイして五となるのであるぞ、五は三百六十であるぞ、天の中の元のあり方であるぞ、七の燈台は十の燈台となり出(い)づる時となったぞ、天は数ぞと申してあろう、地はイロハであるぞ。わからん者が上に立つこととなるぞ、大グレン目の前、日本のみのことでないぞ、世界中のことであるぞ、今度は三千世界が変るのであるから今までのような立て替えではないのであるぞ。何もかも鏡にうつるのであるぞ。鏡が御神体であるぞ。何も写らん御神体のカガミは何もならんぞ。
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