
グリモワール
第二巻 下つ巻 第五帖(四七)
江戸に⦿と人との集まる宮建てよ、建てると申しても家は型でよいぞ、仮のものざから人の住んでいる家でよいぞ。⦿の石まつりて、⦿人祭りてくれよ。それが出来たら、そこでお告げ書かすぞ。淋しくなった人は集まりて、その神示(ふで)見て読んでみれば、誰でも甦るぞ。この神示うつす役要るぞ、この神示印刷してはならんぞ。神の民の言葉は⦿讃(たた)えるものと思え、てんし様讃えるものと思え、人褒(ほ)めるものと思え、それで言霊幸(ことたまさき)わうぞ、それが臣民の言葉ぞ。悪き言葉は言ってはならんぞ。言葉は善き事のために神が与えているのざから忘れんようにな。七月の十五日、ひつくのか三のふで。
第六巻 日月巻 第二十四帖(一九七)
ココニイザナギノミコト、イザナミノミコトハ、ヌホコ、ヌホト、クミクミテ、クニウミセナトノリタマヒキ、イザナギノミコト、イザナミノミコト、イキアハシタマヒテ、アウ、あうトノラセタマヒテ、クニ、ウミタマヒキ(ここに伊弉諾命、伊邪那美命は、沼矛、沼陰、組み組みて。国生みせなと詔りたまいき。伊弉諾命、伊邪那美命、息合わしたまいて、アウ、あうと、詔らせ給いて、国、生み給いき)。
九十(コト)の初め気つけてくれよ。夜明けたら生命(いのち)⦿に頂いたと申してあろがな。⦿(ヒ)あるうちはことごとに⦿(ヒ)の御用せよ。月あるうちはことごとに月の神の御用せよ。それがまことの臣民ぞ。生活心配するでないぞ。こと分けて申せば今の臣民すぐは出来ぬであろが。始めは六分国のため、四分自分のため、次は七分国のため、三分自分のため、次は八分国のため、二分自分のため、というようにしてくれよ。これはまだ自分あるのざぞ。⦿人一つになるのざぞ。十一月二十日、ひつ九⦿。
第八巻 岩戸巻 第一帖(二三七)
「磐戸(いわと)の巻 」書き知らすぞよ、岩戸開くには⦿人共にえらぎ賑わうのざぞ、⦿憑かりして唱(うた)い舞うのざぞ、ウズメノミコトいるのざぞ。ウズメとは女(おみな)のみでないぞ、男(おのこ)もウズメざぞ、女の魂(たま)は男、男の魂は女と申してあろがな。闇の中で踊るのざぞ、唄うのざぞ、皆の者ウズメとなりて下されよ、暁(あけ)告げる鳥となりて下されよ、神憑かりて舞い唄い下されよ、⦿憑かりでないと、これからは何も出来ぬと申してあろがな。十二月三十日、⦿の一二⦿。
第九巻 キの巻 第十一帖(二六八)
一二三(ひふみ)とは限りなき⦿の弥栄であるぞ、一(ひ)は始めなき始であるぞ、ケは終りなき終りであるぞ、⦿の能(はたらき)が一二三であるぞ、始なく終なく弥栄の中今(なかいま)ぞ。一二三は⦿の息吹であるぞ、一二三唱えよ、⦿人共に一二三唱えて岩戸開(ひら)けるのざぞ、一二三にとけよ、一二三と息せよ、一二三着よ、一二三食(お)せよ、始め一二三あり、一二三は⦿ぞ、一二三は道ぞ、一二三は祓ひ清めぞ、祓ひ清めとは弥栄ぞ、⦿の息ぞ、てんし様の息ぞ、臣民の息ぞ、けもの、草木の息ぞ。一(ひ)であるぞ、二(ふ)であるぞ、三(み)であるぞ、ケであるぞ、レであるぞ、ホであるぞ、@であるぞ、@であるぞ。皆の者に一二三唱えさせよ、五柱御働きぞ、八柱十柱(はちはしらとはしら)御働きぞ、五十連(いつら)ぞ、イロハぞ、わかりたか。三月十四日、ひつ九ノか三。
第九巻 キの巻 第十五帖(二七二)
誠(まこと)申すと耳に逆ろうであろうが、その耳取り替えてしまうぞ、我(われ)にわからんメグリあるぞ、今度は親子でも夫婦でも同じように裁くわけには行かんのぞ、子が天国で親地獄というようにならんようにしてくれよ、一家揃うて天国身魂となってくれよ、国皆揃うて⦿国となるようつとめてくれよ、メグリは一家分け合って、国中分け合って借銭なしにして下されよ、天明代りに詫びしてくれよ、役員代りて詫びしてくれよ。
この神示肚に入れておれば、どんなことが出て来ても、胴すわるから心配ないぞ、あなない、元津神々人の世ひらき和し、ことごとくの神人密つ道、勇み出で、すべてはひふみひふみとなり、和し勇む大道、三月十九日、ひつ九のか三。
第九巻 キの巻 第十六帖(二七三)
元津神代の道は満つ、一時は闇の道、ひらき極み、富士の代々、鳴り成るには弥栄に変わり和すの道、道は弥栄。ひふみ道出で睦び、月の神足り足りて成り、新しき大道満つ。神々満ち、えらぎ百千万のよきこと極む。いよいよとなり、何もかも百千とひらき、道栄え道極み進み、道極み真理の真理極む。元の光の神々えらぎ、更に進む世、和合まずなりて百(もも)の世極みなる。世に光る神々の大道、神々ことごとにえらぎて大道いよいよ展き進みて、大真理世界の三つは一と和し、鳴り成りて始めて、まことの愛の代極み来る、弥栄の代の神、人、神人わけへだてなく光り輝き、道は更に極みの極みに進み動き、ありとあることごとくの成り結び、更に新しく更に極むるの大道、神代歓喜の代々。三月二十日、ひつ九のか三。
第十一巻 松の巻 第二十三帖(三一四)
国々所々に、神人鳴り動く、道は世にひらき極む、日月地更に交わり結び、その神々ひらき弥栄え、大地固成、まことの神と現はれ、正し、三神は世に出づ、ひふみと鳴り成るぞ。正しくひらけ弥栄えて更につきず、鳴る道に成り、交わる。永遠の世光ることは永遠の大道、息吹き大地に充ち満つ道。展きてつきず、極り成る神の道。苦しむ道をひらき、日月地に苦しむ喜び出で、神の国むつび、悉(ことごと)く歓喜弥栄ゆ。七月十日、アメのひ一二の⦿。
第十二巻 夜明けの巻 第一帖(三二一)
イシはイにかえるぞ。一(ヒ)であるぞ。 (ム)であるぞ。ヰであるぞ。イであるぞ。〇ヰであるぞ。〇イであるぞ。キと働くのざぞ。わかりたか。
今までは悪の世でありたから、己(おのれ)殺して他人(ひと)助けることを、この上もない天の一番の教えといたしていたが、それは悪の天の教えであるぞ。己を活(い)かし他人(ひと)も活かすのが天の道ざぞ、⦿(かみ)の御心(みこころ)ぞ。他人殺して己助かるも悪ぞ、己殺して他人助けるも悪ぞ、神無きものにして人民生きるも悪ぞ。⦿ばかり大切にして人民放っておくのも悪ぞ。神人(かみひと)共にと申してあろうが。⦿は人に依(よ)り⦿となり、人は⦿によって人となるのざぞ。まことの神の御心(おんこころ)わかりたか。今までの教え間違っていること、だんだんわかりて来るであろうがな。
天地(てんち)和合して⦿※となった姿が神の姿ざぞ。心ざぞ。天(あめ)と地(つち)ではないぞ。天地(あめつち)ざぞ。天地の時と知らしてあろうが、みな取り違い申して済むまいが。神示(ふで)よく読めと、裏の裏まで読めと申してあろうが。七月の二十一日、アメのひつ九のか三。
第十二巻 夜明けの巻 第五帖(三二五)
何もかも神示読めばわかるようになっていること忘れるでないぞ、この仕組言うてならず、言わねばわからんであろうなれど、神示読めば因縁だけにわかるのざぞ。石、物言う時来たぞ。山にも野にも川にも神まつれと申してあること、忘れるでないぞ、型せと申してあろうが、いずれも仮ざから、三千世界の大洗濯ざから、早う型してくれよ。型結構ぞ。何もかも⦿人(かみひと)共にするのざぞ。夜明けたら、何もかもはっきりするぞ、夜明け来たぞ。鳥立てよ。七月二十九日、アメの一二のか三神示書(しょ)。
第十三巻 雨の巻 第一帖(三三五)
天(あめ)の日津久(ひつく)の大神のお神示(ふで)であるぞ、とくにお許しもろて書きしらすぞ。
十二の巻、説いて知らすのであるぞ、この巻「雨の巻」と申せよ。この度は昔から無かりたこと致すのであるから、人民にはわからんことであるから、素直に致すが一等ざぞ。惟神(かんながら)の道とか神道とか日本の道とか今の臣民申しているが、それが一等の間違いざぞと申してあろうが、惟神とは⦿人(かみひと)共に融け合った姿ざぞ。今の臣民⦿無くしているではないか、それで惟神も神道もないぞ、心大きく、深く、広く持ちて下されよ、いよいよとなるまでは落しておくから、見当とれんから、よくこの神示読んでおいて下されよ。
世界中に面目(めんもく)ないことないようにせよと申してあろうが。足元から鳥立ちてもてまだ目覚めんのか、神示裏の裏までよく読めと申してあろうがな。この道はただの神信心とは根本から違うと申してあろうが、三千世界の大道(おおみち)ざぞ。所の洗濯と身魂(みたま)の洗濯と一度になるところあるぞ、イスラの十二の流れの源泉(みなもと)わかる時来たぞ。
命がけで⦿の御用つとめていると思うて邪魔ばかり致しておろがな、金(きん)や学や智では大峠越せんぞ。⦿はせよと申すことするなと申すこともあるのぞ、裏の裏とはそのことぞ、よく心得て下さりて取違い致すでないぞ。手のひら返すぞ返さすぞ、この度の岩戸開きは人民使うて人民助けるなり、人民は⦿のいれものとなって働くなり、それが御用であるぞ、いつでも神憑(か)かれるように、いつも神憑かっていられるようでなくてはならんのざぞ。⦿の仕組いよいよとなったぞ。十月十三日、ひつ九のか三。
第十三巻 雨の巻 第六帖(三四〇)
神示よく読めと、神示よく肚に入れと申してあるが、神示肚に入れると胴すわるのざぞ、世界からどんな偉い人が出て来てどんなこと尋ねても教えてやれるようになるのざぞ、神示胴に入れて頭下げて天地(てんち)に働いて下されよ、祀りて下されよ、素直になればその場から、その場その場で何事も⦿が教えてやるから、力つけて導いてやるから、どんな神力でも授けてやるぞ。一二三四五六七八九十百千卍(ひとふたみよいつむゆななやここのたりももちよろず)授け申して神人(かみひと)となるぞ。
我(われ)さえ良けらよいとまだ思って御座る臣民まだで御座るぞ、自分一人で生きては行けんぞ、神ばかりでも生きて行けんぞ、爪の垢(あか)でもだてについているのではないのざぞ、わからんと申してあまりで御座るぞ、まつりせよ、地(つち)にまつろえよ、天(あめ)にまつろえよ、人にまつろえよ、草木動物にまつろえよと、くどう知らしてあるのにまだわからんのか、神拝(おろが)むばかりがまつりでないぞ。
待ちに待ちし日の出の御代(みよ)となりにけり、一二三(ひふみ)いろはの世はたちにけり。身慾信心(みよくしんじん)している臣民人民、今に神示聞けぬように、いれもの聾になるのざぞ、厳しくなって来るぞ、毒にも薬にもならん人民、今度は役に立たんのざぞ、悪気ないばかりでは日月の御民(みたみ)とは申されんぞ。あら楽し、黒雲一つ払いけり、次の一つも払う日近し。淋しくなりたら神示尋ねて御座れ、神示読まねばますますわからんことになったであろうが、天国に底ないように、地獄にも底ないぞ、どこまでも落ちるぞ、鼻高(はなだか)の鼻折らな人民何と申しても⦿承知出来ん。十一月二十三日、ひつ九のか三。
第十三巻 雨の巻 第十五帖(三四九)
四八音(ヨハネ)世に出るぞ、五十音(イソネ)の六十音(ムソネ)と現われるぞ、用意なされよ。それまでにさっぱり変ええてしもうぞ、天も変るぞ地(つち)も変るぞ。この方等(ほうら)が世立て直すと申しても、この方等が世に出て威張(いば)るのでないぞ、世立て直して世は臣民に任せてこの方等は隠居ぢゃ、隠れ身ぢゃぞ。地から世持ちて嬉し嬉しと申すこと楽しみぞ、(子供よ、)苦しい親の心よく汲み取りてくれよ。この神示読まいでやれるならやりてみよれ、彼方(あちら)でコツン、此方(こちら)でくずれぢゃ、大事な仕組早う申せば邪魔入るし、申さいではわからんし、何にしても素直に致すが一番の近道ざぞ、素直になれんのは小才(こさい)があるからざぞ。鼻高ぢゃからざぞ。
⦿の国は神の⦿のやり方あると申してあろうがな、善きは取り入れ、悪きは捨てて、皆気つけ合って⦿の国は⦿の国ぢゃぞ、金は金ぢゃ、銀は銀ぢゃぞと申してあろがな、盲ならんぞ、カイの御用もオワリの仕組も、何もかも裏表あるのざぞ、裏と表の外(ほか)に裏表あるぞ、ウオヱであるぞ、アとヤとワざぞ、三つあるから道ざぞ。
神前に向って大きく気を吸い、肚に入れて、下座(しもざ)に向って吐き出せよ、八度(やたび)繰り返せよ、⦿のキ頂くのざぞ、キとミとの合いの霊気頂くのざぞ。一二三(ヒフミ)がヨハネとなり五十連(イスラ)と成りなって十二の流れとなるのざぞ、ムがウになるぞ、ンになるぞ、ヤとワと掘り出して十二の流れ結構ざぞ。知らしてあろうがな、これまでの考え方やり方致すなら立て替えではないぞ、何も彼も上中下(うえなかしも)すっかりと立て替えるのざぞ、外国は龍宮の乙姫様、グレンと引っくり返しなさるのざぞ、龍宮の乙姫様、雨の神様の御(おん)活動烈(はげ)しきぞ。今度次の大層が出て来たらいよいよざぞ。最後のとどめざぞ、今度こそ猶予(ゆうよ)ならんのざぞ、キリキリであるから用意なされよ、三、四月気つけよ、キ切れるぞ。
信心なき者ドシドシ取り替えるぞ、この中、誠一つに清め下されよ、天明まだまだざぞ、世の元の型まだまだざぞ、⦿の仕組成就せんぞ、⦿人共にと申してあろがな、⦿厳しきぞ、ぬらりくらりぬるくって厳しきぞと申してあろうがな。役員多くなくても心揃えて胴すえておりて下されよ、⦿がするのであるから、この世に足場作りておりて下されよ、⦿無理申さんぞと申してあろうがな、けれどもちっとも気許しならんのざぞ。身魂相当に皆させてあろうがな、掃除早うせよ、己の戦まだ済んでいないであろうが、洗濯掃除早う結構ぞ。
この方の神示元とわかりながら他(た)の教えでこの道開かんとて開けはせんのざぞ、鏡曇っているから曲って写るのざぞ、一人の改心ではまだまだぞ、一家揃って皆改心して手引き合ってやれよ、外国人も日本人もないのざぞ、外国外国と隔(へだ)て心(ごころ)悪ぢゃぞ。十二月十九日、一二⦿。
第十四巻 風の巻 第七帖(三五八)
⦿にすがりおりたればこそぢゃと言うとき、目の前に来ているぞ。まだ疑うている臣民人民気の毒ぢゃ、我(われ)恨むより方法ないぞ。⦿の致すこと、人民の致すこと、⦿人共に致すこと、それぞれに間違いないように心配(こころくば)りなされよ。慢心鼻ポキンぞ、神示よく読んでおらんと、みるみる変って、人民心ではどうにもならん、見当取れんことになるのざぞ、神示始めからよく読み直して下されよ、読みかた足らんぞ。
天の⦿も地の⦿も無きものに致して、好き勝手な世に致して、偽物の天の⦿、地の⦿つくりて、我がよけらよいと申して、我れ善しの世にしてしもうていたこと少しはわかって来たであろうがな。いよいよマコトの先祖の、世の元からの生神、生き通しの⦿⦿(かみがみ)様、雨の神、風の神、岩の神、荒の神、地震の神ぞ、スクリと現れなさりて、生き通しの荒神(あらがみ)様引連れて御活動に移ったのであるから、もうチットも待たれんことになったぞ、神示に出したらすぐに出て来るぞ、終りの始めの神示ざぞ、ゆめゆめおろそかするでないぞ、キの神示ぢゃ、くどいようなれどあまり見せるでないぞ。二月十六日、ひつ九の⦿。
第十五巻 岩の巻 第十帖(三七五)
わからん身魂も今までは機嫌取って引っ張りて来たなれど、もう機嫌取りは御免ぢゃ。こんなことに長うかかりていたなら掃除が遅れるから、ひときりにいたすぞ。
⦿代(かみよ)となれば天は近くなるぞ、⦿人共にと申してあろうがな。一人となりても、⦿の申すことならば、ついて来る者が誠の者ざぞ、誠の者少しでも今度の仕組は成就するのざぞ、人はたくさんには要らんのざぞ。信者引っ張ってくれるなよ。道は伝えて下されと申してあろうがな。
龍宮の乙姫殿のお宝、誰にもわかるまいがな。ビックリ箱の一つであるぞ。北がよくなる、北が光るぞ、北が一番によくなると申してあることだんだんにわかりて来るのざぞ。これほどに申してもまだ疑う人民沢山にあるなれど、⦿も人民さんには一目(いちもく)置くのぞ、閉口ぞ、よくもまあ曇ったものぢゃなあ、疑うなら今一度我(が)でやって見よれ、それもよいぞ、あちらこちらにグレングレンとどうにもならんのざぞ。
人民には見当取れん大きな大きな大望(たいもう)ざから、その型だけでよいからと申しているのぢゃ、型して下されよ。改心の見込ついたら、世の元からの生神が、おのおのにタマ入れてやるから、力添え致してやるから、せめてそこまで磨いて下されよ。悪は伸びるのも早いが、枯れるのも早いぞ。いざとなればポキンぞ。花のまま枯れるのもあるぞ。二月十六日、一二の⦿。
第十七巻 地震の巻 第二帖(三七九)
天界も無限段階、地界も無限段階があり、その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜している。その霊人たちは、その属する段階以外の世界とは、内的交流はあっても、全面的交流はないのである。何故ならば、自らなる段階的秩序を破るからである。秩序、法則は、神そのものであるから、神自身もこれを破ることは許されない。しかし、同一線上における横の交流は、可能である。それはちょうど、地上における各民族がお互に交流し、融和し得るのと同様である。すべて分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈打たない。分類しては、生命の統一はなくなる。そこに、分離と統合、霊界と現実界との微妙極まる関係が発生し、半面では、平面的には割り切れない神秘の用が生じてくる。一なるものは、平面的には分離し得ない。二なるものは、平面的には一に統合し得ないのである。分離して分離せず、統合して統合せざる、天地一体、神人合一、陰陽不二の大歓喜は、立体的神秘の中に秘められている。 ・ については一なるも、⦿においては二となり、三となり得るところに、永遠の生命が歓喜する。一は一のみにて一ならず、善は善のみにて善ならず、また、真は真のみにて真となり得ない。神霊なき地上人はなく、地上人とはなれた神霊は、存在しない。しかし、大歓喜にまします太神の ・ は、そのままで成り鳴りやまず存在し、弥栄する。それは、立体をはるかに越えた超立体、無限的立体的無の存在なるが故である。霊人は、その外的形式からすれば地上人であり、地上人は、その内的形式からすれば霊人である。生前の形式は、生後の形式であり、死後の形式である。すなわち、死後は生前の形式による。形式は愛と現われ、真と現われ、善と現われ、美と現われる。而して、その根幹をなし、それを生命させるのは歓喜であって、歓喜なき所に形式なく、存在は許されない。愛の善にして真の美と合一しなければ呼吸せず、現の現人にして霊の霊人と合一しなければ生命しない。これら二つが相関連せるを外の真と言う。外の愛も外の真も共に生命する。人間に偽善者あり、霊界に偽善霊の存在を許されたるを見ればわかるであろう。表面的なるものの動きも、内面的に関連性をもつ。故に、外部的に曲げられたる働きの許されてあるを知ることができるであろう。許されてはいるが、それは絶えず浄化し、弥栄すればこそである。浄化し弥栄しゆく悪は悪でなく、偽は偽でない。動かざる善は善でなく、進展せぬ真は真でない。更に善を善とし、悪を悪として、それぞれに生かし弥栄するのを歓喜と言う。歓喜は神であり、神は歓喜である。一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなすことも、みなこれ歓喜する歓喜の現われの一つである。生み出したものなればこそ、生んだものと同じ性をもって弥栄える。故に本質的には善悪のないことが知られるであろう。死後の世界に入った最初の状態は生存時とほとんど変化がない。先に霊人となっている親近者や知人と会し、共に生活することもできる。夫婦の場合は、生存時と同様な夫婦愛を再び繰り返すことができるのである。霊界は、想念の世界であるから、時間なく、空間なく、想念のままになるのである。しかし、かくの如き死後の最初の状態は長くは続かない。何故ならば、想念の相違は、その住む世界を相違させ、その世界以外は想念の対象とならないからである。而して、最初の状態は、生存時の想念、情動がそのままに続いているから、外部的のもののみが強く打ち出される。故に、外部の自分に、ふさわしい環境におかれるが、次の段階に入っていくと、外部的のものは漸次(ぜんじ)うすれて、内分の状態に入っていくのである。内分と外分とは、互に相反するが、霊人の本態は内分にあるのであるから、この段階に入って始めて本来の自分に還るのである。生存時においては、地上的な時、所、位に応じて語り、行為するがために、限られたる範囲外には出られないが、内分の自分となれば、自由自在の状態に置かれる。生存時に偽りのなかった霊人は、この状態に入って始めて真の自分を発見し、天国的光明の扉を開くのである。偽の生活にあった霊人は、この状態に入った時は、地獄的暗黒に自分自身で向かうのである。かくすることによって、生存時における、あらゆる行為が清算されるのである。この状態に入ったならば、悪的なものはますます悪的なものを発揮し、善的なものは善的な力をますます発揮する。故に、同一の環境には住み得ないのである。かくして、諸霊人は最後の状態に入り、善霊は善霊のみ、悪霊は悪霊のみ、中間霊は中間霊のみの世界に住み、善霊は善霊のみの、悪霊は悪霊のみのことを考え、且つ行為することになる。そして、それは、その時の各々にとっては、その時の真実であり、歓喜である。
第十八巻 光りの巻 第一帖(三九七)
「光の巻」 しるすぞ。地(くに)の日月の⦿とは臣民のことであるぞ、臣民と申しても今のような臣民ではないぞ、⦿人共に弥栄の臣民のことぞ、今の臣民も掃除すれば地(くに)の日月の⦿様となるのざぞ、自分卑(いや)しめるでないぞ、皆々⦿⦿(かみがみ)様ざぞ。
もの頂く時は、拍手(かしわで)打ちて頂けよ、⦿への感謝ばかりでないぞ、拍手は弥栄ざぞ、祓(はら)いぞ、清めぞと申してあろうが、清め清めて祓いてから頂くのざぞ、わかりたか。
次の五の巻の謄写(とうしゃ)は四十九でよいぞ、十は⦿よきに使うぞ、前のも十はよきに使うたぞ、わかりたか、皆に分けるぞよ、三は十二の巻の中からよきに抜きて謄写よいぞ。サイトウ、ヒノ、マスナガ、カザマ、サトウ、ハヤシ、サイ、カネシゲに神示(ふで)取らせよ。合わせて四十九の身魂(みたま)。二月二十四日、ひつ九の⦿
第二十一巻 空の巻 第二帖(四五七)
ひふみゆらゆらと一回二回三回唱えまつれよ、甦(よみがえ)るぞ。次に人は道真中にして〇(ワ)となり、皆の者集まりてお互に拝(おろが)み、 ・ (かみ)にまつりまつり結構ぞ、節分からでよいぞ。
このお道の導きの親尊べよ、どんなことあっても上(かみ)に立てねばならんぞ、順乱しては⦿(かみ)の働きないと申してあろうがな。(直会(なほらい)には神の座上につくらなならんのざぞ、神人共にと申してあろがな、)まだわからんのか、順正しく礼儀正しく、⦿にも人にも仕えまつれよ。束(たば)ねの⦿は、束ねの人は後(あと)からぢゃ、後から出るぞ。一月一日、一二⦿。
第二十二巻 青葉の巻 第一帖(四七〇)
乙姫(おとひめ)会には別に⦿祀(かみまつ)らいでもよいぞ、光の大⦿(おおかみ)様斎(いつ)き祀り結構致しくれよ、皆に乙姫様の分(わ)け霊(みたま)授け取らすぞ。お守り授け取らすぞ、光の大⦿様の信者には、御神名下げて取らせよ、役員には御神石(ごしんせき)祀りくれよ、光の大⦿様の日々(にちにち)の御給仕(おきゅうじ)には十(とう)のカワラケにて供えまつれよ。
役員七つに分けよ、大道師(だいどうし)、権(ごん)大道師、中道師、権中道師、小道師、権小道師、参道の七段階ぞ、中道師から上は⦿人共ざぞ。
世界の民の会は三千世界に拝(おろが)み合ふのざぞ、何事も⦿祀り第一ざと申してあろうがな。大き器(うつわ)持ちて御座(ござ)れよ、小さい心では見当とれんことになるのざぞ。ミタマ、慢心(まんしん)、取り違い、ポキンぞ。ミタマ何時でも変るのざぞ。
次々に偉い人出て来るから、神示(ふで)よく読んでグングン行(おこな)って進めよ、行う所⦿現われるぞ、光の道弥栄(いやさか)ぞ、為せば成るのざぞ、人民どんどん行わなならんのざぞ、弥栄ざぞ、この神示からは、ひかり教会から世に出せよ、この巻 「青葉の巻」。前の巻は「空の巻」とせよ。天命ご苦労。四月二十六日、ひつ九のか三。
第二十二巻 青葉の巻 第三帖(四七二)
ひかり教の教旨(きょうし)書き知らすぞ、人民のその時、所に通用するようにして説いて知らせよ。
教 旨
天地(てんち)不二、神人(しんじん)合一。天(あめ)は地(つち)なり、地(つち)は天(あめ)なり、不二(ふじ)なり、天地(あめつち)なり、神は人なり、人は神なり、一体なり、神人(かみひと)なり。
神(しん)、幽(ゆう)、現(げん)を通じ、過(か)、現(げん)、未(み)を一貫して神と人との大和合(だいわごう)、霊界と現界との大和合をなし、現、幽、神、一体大和楽(だいわらく)の光の国実現を以(もつ)て教旨とせよ。次に信者の実践のこと書き知らすぞ。
三大実践主義
弥栄(いやさか)実践
祓(はらい)実践
⦿(まつり)実践 ⦿はマツリぞ。
大宇宙の弥栄生成化育(いやさかせいせいかいく)は寸時(すんじ)も休むことなく進められているのざぞ、弥栄が⦿の御意志ざぞ、⦿の働きざぞ、弥栄は実践ざぞ。人としては其の刹那(せつな)々々に弥栄を思い、弥栄を実践して行かねばならんのざぞ。
宇宙のすべては⦿となっているのざぞ、どんな大きな世界でも、どんな小さい世界でも、ことごとく中心に統一されて、まつろうているのざぞ。マツリせる者を善と言う、それに反する者を悪と言うのざぞ、人々のことごとマツリ合わすはもとより、神、幽、現、の大和(だいわ)実践して行かねばならんのざぞ。
天地(あめつち)の大祓ひと呼応(こおう)して、国の潔斎(けっさい)、人の潔斎、祓(はら)い清めせねばならんのざぞ、与えられた使命を果たすには、潔斎(けっさい)せねばならんのざぞ。省(かえり)みる、恥(は)じる、悔(く)ゆる、畏(おそ)る、悟(さと)る、の五つのはたらきを正しく発揮して、禊(みそ)ぎ祓いを実践せねばならんのであるぞ。役員よきにして、今の世によきように説いて聞かして、まづ七七・四十九人、三百四十三人、二千四百一人の信者早うつくれよ、信者は光ぞ、それが出来たら足場出来るのざぞ。産土(うぶすな)の⦿様祀れ、(信者出来たら、国魂の神様祀れよ、)次に大国魂(おおくにたま)の⦿様祀れよ、世光り来るぞ、五月十二日、ひつ九のか三。
第二十二巻 青葉の巻 第十帖(四七九)
善き⦿(かみ)には善き御用、悪き⦿には悪き御用、自分で自分がつとめ上げるのぢゃ、人になんと言われても腹の立つようでは御用難しいぞ、腹立つのは慢心からぢゃと申してあろうがな。仕組途中でグレンと変り、カラリと変る仕組してあるのぢゃ、そこに一厘の仕組、火水(かみ)の仕組、富士と鳴門の仕組、結構々々大切致してあるのぢゃ。仕組変わり変わりて人民にはわからんなり、善き世と致すのぢゃ、いくら智あっても人間心では出来ん仕組ぞ、智捨てて⦿にすがりて来ねばわからん仕組ぢゃ、と言うて人間世界は人間の智いるのぢゃ、智でない智を⦿が与えるぞ、⦿人共にと申してあろうがな、つとめ上げたら他にない結構な御用。八月三日、ひつ九⦿。
第二十三巻 海の巻 第四帖(四九六)
出てきてからまた同じようなこと繰り返すぞ、今度は魂(たま)抜けているからグニャグニャぞ、グニャグニャ細工しか出来んぞ、それに迷うでないぞ。神示(ふで)が肚(はら)に入って血になると、何が起って来ても結構であるが、始のうちは、ちょっとのことで迷いの雲が出て、悪の虜(とりこ)となって苦しむぞ。悪は無いのであるが、無い悪を人民の心から生むのざぞ、悪の虜となって苦しむが見えているから、苦も結構なれど、いらん苦はいらんぞ、神示よく読んで苦を楽とせよ、楽は喜びぞ、苦の動くが楽ぞ、楽は喜びぞ、光ぞ、⦿人共のまつりぞ、楽で岩戸開けるぞ、苦しんで開く岩戸はマコトの岩戸でないぞ。八月十四日、ひつくのか三。
第二十三巻 海の巻 第十六帖(五〇八)
今離れた人民、ここが良くなったと言うて帰ることは恥ずかしいことになって、帰っても変なことになるぞ、今のうちに早う立ち返って御用結構ぞ。世界に、人民にわからん珍しきことを出すぞ、皆この⦿の仕組であるから、変ったこと、わからんことがいよいよとなったら、⦿代(かみよ)近づいたのであるぞ。役員には神示の肚(はら)に入った者がなるのざぞ、役員の御魂はたくさんあれど、神示読まねば役員にはなれないのざぞ、なればスコタンばかり、長らく世に落ちていた神人(かみひと)、⦿⦿(かみがみ)様を世にお上げせねば世は良くならんのざぞ、軽く見るから神示わからんのぢゃ、人も軽く見てはならんぞ。八月二十三日、一二⦿。
第二十四巻 黄金の巻 第十一帖(五二二)
今度のイワトびらき、神と人との九十運動ぞ。立て替えの守護が大切ぞ。まず一筋の天地の道から変えるのぢゃ。次に人の道つくるのぢゃ。経と緯であるぞ。人の道と天地の道と間違えているぞ。人の道は花色々と咲き乱れ、織(お)り交(ま)ぜて、楽し楽しのそれぞれであるぞ。自分で自分のことしているのであるが、またさせられているのであるぞ。大き自分に融(と)け入ったとて小さい自分無くなってしまうのでないぞ。神人(かみひと)ぞ。天地(あめつち)ぞと申してあろうが。善も仮ぞ。悪も仮ぞ。よく心得なされよ。かのととりの日。一二十(ヒツキノカミ)
第二十四巻 黄金の巻 第九十三帖(六〇四)
そなたが神つかめば、神はそなたを抱くぞ。神に抱かれたそなたは、平面から立体のそなたになるぞ。そなたが有限から無限になるぞ。神人(かみひと)となるのぢゃ。永遠の自分になるのであるぞ。他のために行ぜよ。神は無理申さん。始めは子の為でもよい。親の為でもよい。自分以外の者の為に、まず行ぜよ。奉仕せよ。嬉し嬉しの光さし初(そ)めるぞ。始めの世界ひらけるぞ。一本足では立てん。二本足がよいぞ。やがては明くる二三(フミ)の朝、二二(フジ)は晴れたり、日本晴れ。(一月三日)
第二十五巻 白銀の巻 第六帖(六一七)
元の元の〇ムからム、ウの中界を経(へ)て、ウの現界に到る悉(ことごと)くの世界が皆人間に関係あるのであるから、肉体はウであるが、魂は〇ムに通じているのであるから、〇ムはヨロコビであるから、喜びが人間の本体であるから、神界と言い、現界と言い、一本の国であるから、人間からすれば、人間が土台であるから、神の礎(いしずえ)であるから、神鎮(しず)まれば神人(かみひと)となるのであるから、神界、中界、現界つらぬきてい居らねば、マコトの和合して居らねば、マコトの喜びでないから、マコトの喜びが大神であるから、大神の働きは人間によるものであるから、心せねばならんぞ。 ・ せねばならんぞ。天使と言い、天人と申すも、みなそれぞれの国の人間であるから、喜びの人間であるから、この道理わかりたら、地の世界と、中の世界と、天の世界と、みな同じであるから、持ちつもた持たれつであるから、三千世界であるから、地の上に禍(わざわい)あると、天の国にも禍(わざわ)うのであるから、天の国の生活は地の上に根をつけているのであるから、遠くにあるのでないぞ。同じ所にあるのであるぞ。幽界と申すのは道を外れた国のことざと知らしてあろうがな。地獄無いと申してあろうがな。このこと間違わんように、地獄地獄の言葉、やめて下されよ。言葉からモノ生むのぞ。ただモノが違うのみであるから、人間の心が神に通ずるときは喜びとなり、幽人に通ずるときは悲しみとなるのであるぞ。通ずる心あるから心に自由あるのであるぞ。弥栄あるのであるぞ。この道理よくわきまえて下されよ。天人に結婚もあれば仕事もあるぞ。死もまたあるのであるぞ。死とは住む段階の違う場合に起る現象ぞ。死とは生きることぞ。人間は皆、神かかっているのであるぞ。神かかっていないもの一人もおらんのぢゃ。神かからんものは呼吸せんのぢゃ。このことわかりて居ろうがな。霊人は人間の心の中に住んでいるのであるぞ。心を肉体として住んでいるのぢゃ。その中にまた住んでいるのぢゃ。平(ひら)とう説いて聞かしているのぢゃ。霊人と和合しているから、神かかりであるからこそ、三千世界に働き栄えるのぢゃぞ。神界のこともわかる道理ぢゃ。幽界のこともわかる道理ぢゃ。人間のいうかみかかりとは幽界のカミかかりぢゃ。ロクなことないのぢゃ。神かかりにも、神かかりとわからん神かかり結構ぢゃなあ。まことぢゃなあと知らしてあるのにまだわからんのか。(五月八日)
第二十七巻 春の巻 第二帖(六五九)
神人(かみひと)と申すのは、神の弥栄のため、世の弥栄のため祈り、実践する人のことであるぞ。神のため祈れば神となり、世のため祈れば世と一体となるのぢゃ。自分のためばかりで祈れば迷信、我(わ)れ善(よ)しの下(げ)の下ぞ。誰でも霊かかりであるぞ。石でも木でも土でも霊かかりぞ。これは一般かみかかりであるぞ、特別神かかりは神の御力を強く深く集める行がいるのぢゃ。九分通りしくじるのぢゃ。太陽の光集めること知っているであろうが。神の理(みち)をよりよく、より高く集める道がマコトの信仰であるぞ。ミチであるぞ。世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。悪かみかかりに迷うでないぞ。サニワせよ。外はウソが多いぞ。内の声ウソないぞ。旧、元旦、日月神。
五十黙示録 第一巻 扶桑之巻 第五帖
八塩路(やしおじ)の塩(しお)の八百会母(やほあい)いますくに。天の声あるぞ、地の声あるぞ、和して十の日月地と現われるぞ、五十人の仁人が出て来るぞ、仁人とは神人(かみひと)のこと、この仁人が救世主であるぞ、救世主は一人でないぞ。各々の民族に現われて五十人であるなれど、五十という数に囚(とら)われるなよ、五十人で一人であるぞ、数に囚われると、わからんことになり、岩戸閉めとなるから気つけおくぞ。
補巻 月光の巻 第七帖(七九四)
大奥山は神人交流の道の場である。道は口で説くものではない。行ずるものである。教えは説かねばならない。多数決が悪多数決となるわけが何故にわからんのぢゃ。投票で代表を出すとほとんどが悪人か狂人であるぞ。世界が狂い、悪となり、人民も同様となっているから、その人民の多くが選べば選ぶほど、ますます混乱してくるのであるぞ。
それより他に人民の得心出来る道はないと申しているが、道はいくらでもあるぞ。人民の申しているのは平面の道、平面のみでは乱れるばかり、立体に綾(あや)なせば弥栄えて真実の道がわかるのぢゃ。ぢゃと申して独裁ではならん。結果から見れば神裁ぢゃ。神裁とは神人交流によることぞ。(十二月二十五日)
神は嘘つきぢゃと人民申しても、悪い予言は嘘にしたいので日夜の苦労、堪(こら)られるだけ堪えているのである。もう、モノばかりでは治まらんこと、金(きん)では治まらんこと、平面のみでは駄目であること、よくわかっているのに兜(かぶと)脱げん神々様よ、気の毒が来ぬ前に改心結構。遠くからではわからんし、近づくと迷うし、理屈すてて神に惚(ほ)れ参らせよ。よくこの神を騙(だま)してくれたぞ、この神が騙されたればこそ、太神の目的成ってくるのぢゃ。細工はりゅうりゅう仕上げ見て下されよ。
区別すると力出るぞ、同じであってはならん。平等でなくてはならんが、区別なき平等は悪平等である。天に向って石を投げるようなことは、早くやめねばならん。霊かかりもやめて下されよ。
人民が絶対無と申しているところも、絶対無ではない。科学をさらに浄化弥栄させねばならん。
空間、時間が霊界にないのではない。その標準が違うから無いと考えてよいのである。
奥山は奥山と申してあろう。いろいろな団体をつくってもよいが、いずれも分かれ出た集団、一つにしてはならん。奥山は有りて無きもの、無くて有る存在である。
奥山と他のものとまぜこぜまかりならん。大き一つではあるが別々ぞ。今までになかった奥山のあり方、わからんのも無理ないなれど、これがわからねば この度の大神業、わかりはせんぞ。
五十黙示録 第一巻 扶桑之巻 第十五帖
百不足(ももたらず)八十隈手(やそくまで)いまひらかん時ぞ。天のことは今までは人民にはわからなかったのであるぞ、時めぐり来て、岩戸が開けて、わかるようになったのぞ、今までの人民であってはならん、地そのものが変っているのであるぞ、人民は我(ガ)が強いから一番遅れているのであるぞ、人民の中では宗教人が一等遅れているぞ、神人(かみひと)とならねば生きては行かれんのぢゃ、天地がアメツチとなってきているからぞ、天も近うなるぞ、地も近うなるぞと気つけてありたのに目さめた人民少ないぞ、今に昇り降りで忙しくなり、衝突するものも出てくるぞ、他人におんぶされたり、車に乗せられていた人民たちよ、もうその時は過ぎているのであるから、自分の足で歩まねばならんぞ、大地を踏みしめよ、大地の気が身内に甦るぞ。
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