聖徳太子の事績
『みろくの世』では、私たち日本人が世界中の人のお手本となると云われています。
この課題の最終目的は、聖徳太子の残した事績を通じて、私たち日本人の基本的な気質がどのように形成されたのか知るところにありそうです。
法隆寺と救世観音
法隆寺と藤原氏
ウィキペディア - 法隆寺 より引用 (多少表現は代えてあります)
『日本書紀』によれば、聖徳太子は推古9年 (601年) 、飛鳥からこの地に移ることを決意して、斑鳩宮 (いかるがのみや) の建造に着手します。
そして、推古天皇13年 (605年) に斑鳩宮に移り住んだのだそうです。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺でした。
『日本書紀』には天智天皇9年 (670年) に法隆寺が全焼したという記事のあることから、現存する法隆寺の伽藍は火災で一度失われた後に再建されたものであるとされています。
皇極天皇2年 (643年) 、蘇我入鹿 (そがのいるか) が山背大兄王 (やましろのおおえのおう) を襲った際に斑鳩宮は焼失しましたが、法隆寺はこの時は無事だったと考えられています。
ここまでは、藤原氏の関与は見出せません。
養老2年 (718年) に県犬養橘三千代 (あがた(の)いぬかい の みちよ) が西円堂を建立したとする伝承があります。
また、娘の光明皇后 (こうみょうこうごう) が多額の寄進を行い、孫娘の橘古那可智(たちばな の こなかち:聖武天皇夫人)の居所が寄進されて伝法院になったのも、彼女たちの法隆寺への信仰も三千代の影響と考えられるとあります。
このあたりから、藤原氏の関与が始まったと観られます。
しかし、「隠された十字架」の著者、梅原猛氏の「法隆寺は聖徳太子を封じるための寺である」という考察は間違っているように思えます。(注1)
注1:「隠された十字架」ー法隆寺論 梅原 猛 著
法隆寺の仏像
再建法隆寺金堂の当初安置像の想定図
~中之間・釈迦三尊像、東之間・薬師如来像、西の間・救世観音像~
大橋一章氏論文「救世観音像の原所在とその後の安置場所」掲載
法隆寺の仏像が造られた経緯です。人名や仏像名にはルビを振ってあります。(注1)
「夢殿本尊の救世観音像はこの小論で検討してきたように、その安置場所を何度か変えてきた。
推古30年(622)2月の聖徳太子の死に際し、のこされた后たちが太子に対する深い情愛と太子生前の仏教帰依を畏敬する感情から、刀自古郎女 (とじこ の いらつめ) は釈迦三尊像 (しゃかさんぞんぞう) を、橘大女郎 (たちばなのおおいらつめ) は天寿国繍帳 (てんじゅこくしゅうちょう) を、そして菟道員鮪皇女 (うじのかいたこのひめみこ) は後に夢殿本尊となる観音像をつくらせたのである。
完成したこれらの仏教美術品はそれぞれの后たちの宮殿に置かれていたが、やがて后たちが薨去し、宮殿も廃絶するとこれらの仏教美術品は太子の文化遺産として、太子発願の法隆寺に納まった。
その後天智9年(670)4月に法隆寺は焼失するが、再建法隆寺が太子信仰の寺を目指すと俄然脚光を浴び、再建された金堂が三座並列式を採用すると釈迦三尊像は中の間に、救世観音像は西の問に置かれた。
その後法隆寺では太子信仰の総仕上げともいうべき上宮王院を建立することになり、天平11年(739)4月太子等身の観音像を金堂西の間から完成した夢殿に遷座したのである。
この夢殿本尊は平安時代になると太子御影の救世観音像と見做されたため、人の目を避けるため秘仏とされ、最後は全身を白布で巻いて究極の秘仏となり、600年以上が過ぎ去った。そして明治17年、夢殿本尊はその全容を現わしたのである。」
法隆寺夢殿の救世観音像を造ったのは、藤原氏ではなかったのです。「隠された十字架」の梅原猛氏の「救世観音の光背に関する考察」は正しくはないのかもしれません。
後日、藤原氏が光背を頭に突き刺すような仕様に変更した可能性もありますが、他の仏像にも同様な事例があることから、梅原猛氏の仮説には信憑性がないと考えられます。
しかし、聖徳太子の存在を歴史から消し去りたい当時の為政者が、救世観音像を究極の秘仏として封印したことは確かなようです。
注1:近代 「仏像発見物語」 をたどって
聖徳太子の業績
聖徳太子の封印解除
聖徳太子の物理的な封印解除は、夢殿の秘仏 救世観音の開帳により成し遂げられたと考えられます。しかし、つい最近まで聖徳太子の存在が教科書からも消されていたように、ソフト面での封印解除を行う必要があります。
ネット上で探したところ、まさにぴったりの動画を見つける事が出来ました。小名木善行 (おなぎ ぜんこう) 氏の動画チャンネル「むすび大学チャンネル」に掲載されていた聖徳太子に関する動画集です。
2023年3月から11本の動画が掲載されています。それぞれ20分ほどの動画となっています。
小名木善行氏は、ブログ「ねずさんのひとりごと」で有名な方です。現在のブログ名は「ねずさんの学ぼう日本」です。
また、Youtubeチャンネル「希望の日本再生チャンネル」がスタートしています。書籍も多数出版されています。
聖徳太子に関する動画集
1:学校教育で隠された聖徳太子の本当の姿
2:聖徳太子 本当は何がすごいのか?
3:聖徳太子のすごさがわかる。冠位十二階の本当の狙い
5:【オリジナル】四文字熟語で分かる十七条憲法
6:神仏対立の決着をつけたのは聖徳太子だった?
8:なぜ日本人は多彩な宗教観を受け入れているのか?
9:衝突や対立を乗り超える方法を聖徳太子に学ぶ
10:驚愕!日本は1400年前から民主主義だった!?
動画解説1
ここからは、先に挙げました小名木善行氏の動画を個々に解説してゆきます。各々20分ほどの動画ですが、短くまとめて文章化することで備忘録の役割を持たせてあります。
弥勒大神さまが十一面観音を離れて、『みろくの世』という概念となった。というお話をしましたが、はて『みろくの世』の概念とは何ぞやという疑問が残っていました。
その後、聖徳太子の登場です。小名木善行氏の聖徳太子の一連の動画を見て、そこに日本人特有の精神が流れていることに気が付きました。
もっとも有名な文言『和を持って貴しとなす』に象徴される日本人の基本的精神が、1,400年前の聖徳太子の事績によって確立されていたのです。
『みろくの世』へと移行する『夜明けの晩』である今の時期に、聖徳太子について学んでおくことの意義がここにあるのではないかと思うのです。
これから始まる『みろくの世』は、日本から始まります。日本人が世界の人々のお手本となる時代がやってくるのです。
こうした時代を前にして、私たち一人一人が持つ日本人的な気質がどこから来ているのか?改めて認識しておく必要があるのではないでしょうか?そのように思います。
1:学校教育で隠された聖徳太子の本当の姿 19:34
聖徳太子の時代と事績
聖徳太子の行った大きな事績といえば、冠位十二階や十七条の憲法が思い浮かびますが、これらの制度設計よりもはるかに大きな事績を残しているのです。
聖徳太子没後1,400年間の間に培われた、日本人の日本的な精神、日本の基本的な国の形、こういったものが、ことごとく聖徳太子から始まっているのです。
聖徳太子の事績
1 蛮行をする新羅を冠位十二階で黙らせ
2 遣隋使を派遣して我が国の独立を宣言し
3 上下の調和を十七条の憲法で説き
4 仏教興隆の詔で仏教を振興して数々の寺院を建設し
5 敬神の詔で我が国古来の神道を国の柱とし、
6 こうして仏教の対立に終止符を打ち
7 『三経義疏』『四天王寺縁起』『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』『先代旧事本紀大成経』等を著して我が国の歴史と文化を統合し、我が国の大調和の文化を築き上げた偉大な摂政皇太子
一昔前、聖徳太子は実在していなかったという論調が歴史学会内部にありましたが、今では完全に否定されています。
日本は遅れた国なのだから、聖徳太子のような優れた人物がいたはずがないという論理の元に組み上げられた御用学者による理論でした。
聖徳太子以前の時代
崇神天皇の時代に、疫病の流行により人口が2/3になりました。その後、人が集まる場である神社に手水舎を設けたことにより、疫病を克服しました。
第16代仁徳天皇の時代には、農業政策により日本は豊かな国になります。この頃から海外より優秀な人材が日本を目指して集まるようになったのです。しかし、悪人も入ってきます。
第21代雄略天皇の時代になると、1万4,000年の間人を殺すという文化のなかった日本において、物騒な事件が多発するようになります。
こうした悪人どもを片っ端から捕まえて成敗するという事態になったのが、雄略天皇の時代でした。これを行うことにより我が国の治安が保たれたのです。
仏教公伝
仏教は1世紀から2世紀頃にはすでに日本に入ってきていました。6世紀に入ると公に仏教が入ってきます。ですから、仏教公伝と呼ぶのです。
第33代推古天皇の時代に入ると、仏教を後押しする蘇我氏と、伝統的な天神地祇を祭る神道を重要視する物部氏との間に対立が起こります。
このような不穏な環境の中で、天皇が殺されるという事態が起こります。推古天皇は中継ぎの天皇として即位したのです。
推古天皇は、神武天皇以来の初めての女性天皇となられたのです。神功皇后は、かつては神功天皇でしたが、今では皇后に格下げされています。
天皇の「シラス国」
推古天皇は3度に渡って断るのですが、政務を行う摂政を置くことで、納得し天皇に即位されたのです。政務全般は摂政が行い、天皇はそれを知っておくだけでよいということになったのです。
これを、日本は天皇の「シラス国」と呼ぶのです。天皇は全てを知る存在。知るだけで政治権力は振るわない。当然責任も発生しない。天皇は知り且つすべての民衆を大御宝 (おおみたから) とする。
こうした仕組みが初めて造られたのが、聖徳太子が摂政を務める推古天皇の時代だったのです。
聖徳太子を学ぶということは、日本人の精神を学ぶこと、日本人とは何かを学ぶこと、そして我々自身が改めて日本人になってゆくということを学ぶということになります。
そして、その精神を余すことなく伝えているのが、実は十七条憲法になります。
2:聖徳太子 本当は何がすごいのか? 21:45
聖徳太子が行った偉大なる大調和の事実 (歴史を大きく変えた出来事)
摂政 聖徳太子
推古天皇は、当時の国際情勢や国内の争いごと故、天皇となることを拒否されたのですが、宰相として優秀な人物に政務を任せるという代替案を受け入れ、女性初の天皇となられたのです。
その摂政となられたのが、聖徳太子でした。聖徳太子は、日嗣の皇子 (ひつぎのみこ) として推古天皇の摂政になられました。
これによって、国家最高権威である天皇と、国家最高の政治権力が分離したのです。ここに、初めて権威と権力の二重構造が生まれたのです。
仏教の保護
聖徳太子が初めて行った事は、仏教の大伽藍を次から次へと建てることでした。この時代は、仏教が公伝してきました。
当時の仏教は強力な武力を合わせ持つ存在でした。仏教は、武装勢力であると共に、国家鎮護の役割を担う存在でした。
この両方の面を鑑み、聖徳太子は彼らに対して素晴らしい寺院を建立し、経済的基盤となる荘園を与えたのです。
聖徳太子は仏教を徹底保護したのです。この影響で大きな実力を付けたのが蘇我氏でした。蘇我氏は寺院の建造や仏像、装飾品等製造の一切の仕事を請け負っていたのです。
大調和の精神
当時、古来よりの神道勢力と仏教勢力との対立がありました。物部氏と蘇我氏の対立です。この対立構造を解消されたのが聖徳太子でした。
国際状況に鑑み冠位十二階を定め、また、国内秩序の安定を図るために十七条の憲法を定めました。そのうえで、発布された詔があります。敬神の詔 (けいしんのみことのり) です。
これにより、仏教と神道、政治を分離させたのです。仏教と神道の2元対立構造を、政治を仏教と神道から分離することで3次元構造に置き換え大調和の基盤を構築したのです。
この3次元構造は、君 (きみ) である天皇と天皇の大御宝 (おおみたから) である民 (たみ) と為政者である臣 (おみ) の三竦み構造に見て取ることも出来るのです。
敬神の詔
推古天皇十五年 (西暦607年) 春二月九日
古来わが皇祖の天皇たちが、世を治めたもうのに、つつしんで厚く神祇を敬われ、山川の神々を祀り、神々の心を天地に通わせられた。
これにより陰陽相和し、神々のみわざも順調に行われた。今わが世においても、神祇の祭祀を怠ることがあってはならぬ。
群臣は心をつくしてよく神祇を拝するように」
宗教に無節制な日本人
聖徳太子が行った、神道と仏教の大調和の精神は、その後日本に伝来する儒教やキリスト教、あらゆる文化を飲み込み、混然一体とした文化を築く基盤となったのです。
クリスマスを祝い、除夜の鐘を聞き、神社に初詣出をし、バレンタインデーには一喜一憂すると云う、外国人から見ると無節操に見える日本人の宗教観を育む文化的基盤を造ったのが聖徳太子だったのです。
またこの時より、天皇という権威と政治的権力とを分け、専制政治が行われないようにするという権威と権威の二重構造を造り出したのも聖徳太子だったのです。
やはり、私たち日本人は、自らのアイデンティティー確立のためにも聖徳太子について学んでおく必要がありそうです。
『みろくの世』には、通奏低音のように日本人的な精神というものが流れて行くように思えます。
その時、私たち日本人が世界中の人のお手本となるのであれば、日本人気質というものを再確認しておく必要があるかと思うのです。
課題の最終目的
どうやら、今回の課題の最終目的は、聖徳太子の残した事績を通じて、私たち日本人の基本的な気質がどのように形成されたのか知るところにありそうです。
2つの課題『宇迦之御魂神さまの課題』と『宇迦之御魂大神さまの課題』、かなり込み入ったお話をしています。全体を読まれないと全容を理解することが難しいのです。
最近の記事まで、100名前後の読者の方々が読まれています。このブログ記事も100名ほどの方が目を通されると、その任務を果たせると観ています。
いわゆる『100人目の読者現象』です。ある一定数の方々が同じ認識を持たれると、集合無意識の領域に共通の概念が確立されるという理論です。
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