聖徳太子の因縁
上宮一族の滅亡
夢殿
法隆寺の夢殿に祭られていた救世観音 (ぐぜかんのん) は、500ヤード (457.2m) の布でぐるぐる巻きにされていたと云われています。これは、聖徳太子の怨霊伝説のお話です。
江戸時代の200年間は、法隆寺の僧侶でさえ救世観音を拝むことが出来なかったと云われています。僧侶たちは、封印を解けば直ちに神罰が下り、地震で全寺が崩壊するという迷信を信じていました。
ではなぜ、聖徳太子は怨霊となってしまったのでしょうか?
今回は、聖徳太子が怨霊となった背景についてのお話です。下記の3本の動画を参考にしています。お時間の許す方は、全編を視聴なさってください。(注1)
お時間のない方のために、部分的ですが重要と思われる個所を書き起こしてあります。
聖徳太子が怨霊とならなければならなかったのは、いったい誰の仕業だったのでしょうか?
斑鳩宮 (いかるがのみや) の若草伽藍 (わかくさがらん) を蘇我入鹿 (そがのいるか) が襲って山背大兄王 (やましろのおおえのおう) 一家を攻めます。そして、聖徳太子の上宮 (うえのみや) 一族が滅亡します。
この斑鳩宮の悲劇が背景に『救世観音の封印を解くと聖徳太子の怒りにふれ、祟りがある』そう信じられ、長い間法隆寺の僧侶すらその姿を拝められなかったと考えられています。
法隆寺を再建したのは藤原氏だとも言われています。聖徳太子の怨霊伝説とどういう関係があるのでしょうか?
中臣鎌足 (なかとみのかまたり) が法隆寺の再建に力を注いだのには訳があるようです...
注1:参考動画
山背大兄王の自害
643年11月1日 蘇我入鹿 (そがのいるか) と軽皇子 (かるのみこ) 、巨勢巨徳太 (こせ の とこた) 、大伴連長徳 (おおとも の ながとこ) らの率いる軍勢は、斑鳩宮 (いかるがのみや) に住む山背大兄王 (やましろのおおえのおう) の一族 (上宮一族) を襲撃し、滅亡に追い込んだ。
山背勢は防戦につとめたが、宮には火が放たれ、山背大兄王の父・聖徳太子が築いた斑鳩宮は炎上する。
山背大兄王一族は、側近の三輪君文屋 (みわ の ふみや) の誘導により脱出に成功したが、斑鳩宮を脱出した王一行は、一時生駒山中に難を避ける。
しかし、東国に行って再起しようという家臣の説得にもかかわらず、山背大兄王は、
「われ、兵を起こして入鹿を打たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷 (そこな) わんことを欲せじ。このゆえわが一つ身をば入鹿に賜わん」
この言葉を残して、数日後、斑鳩宮で自害した。
厩戸皇子 (聖徳太子) の子。母は蘇我馬子の娘刀自古郎女 (とじこ の いらつめ) で大巨・蘇我入鹿とは従兄弟にあたる。『上宮聖徳法王帝説』より
斑鳩宮襲撃
つづきます。
斑鳩宮襲撃は、蘇我入鹿の計画より実行した。643年の病気を理由に引退した蘇我蝦夷 (そが の えみし) に代わり、新たに大臣となったばかりであった。
この行動は、唐と高句麗との戦争への対応策、それに対処できる天皇の擁立という、外交・内政に関する2つの懸案を一挙に解決するためだと考えられている。
天皇の擁立は、蘇我入鹿は蘇我氏の血を引く古人大兄皇子 (ふるひとのおおえのみこ) と軽皇子(かるのみこ:皇極天皇の弟) との対立であるが、斑鳩宮襲撃は、両派が共通の敵として山背大兄王を打倒する必要があった。
「当時、都で伝染病が蔓延し、政治の中心にいた人物も相次いで病に倒れた」
これを、聖徳太子の怨霊による呪いと考えた藤原氏 (聖徳太子亡き後にその家系断絶に手を貸したという負い目があったという説がある) が、聖徳太子の怨霊供養のために法隆寺を創建したという説もある。
聖徳太子の息子である山背大兄王をはじめとする上宮一族が攻められ、自害した場所...
この斑鳩宮の悲劇が背景に「救世観音の”封印”を解くと聖徳太子の怒りにふれ、祟りがある」そう信じられ、長い長い間法隆寺の僧侶ですらその姿を拝めなかったという。
聖徳太子の死
つづきます。
また、妻である膳大郎女 (かしわでのおおいらつめ) が聖徳太子を看病していたが、聖徳太子と一日違いでこの膳大郎女もなくなったといわれている。
2か月後に母もなくなっている。ほぼ同時期に家族3人が無くなっている...
(〇殺された) 可能性が高いと言われている。一説によると「毒〇されたんじゃないか」とも言われています。
聖徳太子の死にまつわる説は様々ありますが、
「病死」
「毒による暗さつ」
「蘇我入鹿による陰謀説」
「刀自古郎女の嫉妬説」など
よく聞くのが「刀自古郎女の嫉妬による毒さつ説」
実は聖徳太子には4人の妻がおり、その中でも聖徳太子の一番愛した女性が膳大郎女。
聖徳太子は膳大郎女に墓に共にはいろうと語ったほど彼女を愛し、8人の子供をもうけました。
蘇我馬子の娘・刀自古郎女は、聖徳太子の後継者ともいえる山背大兄王を含む4人の子どもを産み、膳大郎女よりもはるか身分が高い存在でした。
つまり、刀自古郎女からすると、自分よりも身分の低い女に夫を奪われてしまったといえます。
この嫉妬心から刀自古郎女が二人を暗さつしたとしてもおかしくないでしょう。
二人は天然痘で苦しんでいた状態だったことから、女ひとりでも十分に事を成し遂げられたはず...と。
藤原氏の陰謀
聖徳太子と救世観音〜厩戸王は何故怨霊になったのか〜その2 より
鎌足 (かまたり) は、自分が政治を動かすためには蘇我氏が邪魔だと考え、聖徳太子の息子である山背大兄王の命を蘇我氏に獲らせ、聖徳太子の一族を滅亡させた。
次に、太子一族を根絶やしにした蘇我入鹿に全ての責任を押し付けて中大兄皇子を利用し、大化の改新を成功させたのです。
しかし、藤原不比等の四兄弟が命を落としたのは、聖徳太子の怨霊、祟りによるものだと考えた藤原氏は恐れおののき、法隆寺建立に力を入れ、太子の写し身とも言われる救世観音の頭に怨霊封じのために、釘を打ち込んだ...
重い光背をこの仏像に背負わせ、しかも頭の真後ろに太い釘を打ち付ける。いったい、こともあろうに仏像の頭の真ん中に釘を打つというようなことがあろうか。
釘をうつのは呪詛の行為であり、さつ意の表現なのである。
いままで誰一人として、この釘と光背の意味について疑おうとしなかった。
この仏像は重い光背を太い釘で頭の後ろに打ち込まなければならない運命を持っていたのである。これは想像するだに恐ろしいことである。
いかなる理由があるとはいえ、仏様の頭に穴をあけたり、釘を打ったりするのはあまりにも恐れ多いことではないか。
夢殿の救世観音には、この恐れ多い行為がハッキリなされている。大きな釘が頭の真後ろから深く突き刺さっている。
金堂の四天王においては、釘は金具で止められている。しかし夢殿では、まさしく釘は奥深く打ち込まれているのである。
その例は、金堂の釈尊の脇侍にあるとはいえ、まったく恐ろしいことである。
こうして夢殿と、その本尊の救世観音はつくられた。太子の怨霊は見事に封じ込められ、行信 (ぎょうしん) の厭魅 (えんみ) は成功し、ここに光明天皇はじめ、藤原氏の血を引く権力者は不安から解放されたのである。
藤原四兄弟
つづきます。
聖徳太子の死に藤原氏と蘇我氏がどう関わっているのかの考察を少し...
聖徳太子を殺して得をしたのは、一見すると蘇我氏であるかのように見える。しかし、最終的に勝者となったのは藤原氏ら反蘇我派である。
聖徳太子暗さつは、反蘇我派が最初から仕組んだワナだったという可能性が強いことになる。
蘇我氏に権力を奪われた王家にとって、天皇親政の復活は悲願であった。しかし、これを実現するにはふたつの邪魔な存在がある。
ひとつはもちろん蘇我氏、そしてもうひとつは、非蘇我系の皇族からみれば蘇我氏の傀儡にすぎない聖徳太子であった。
この両者を同時に抹殺しないかぎり、天皇家の復活はのぞめそうにもない。
そして、藤原氏を中心とする反蘇我派は蘇我氏をそそのかし、ときの天皇・推古のお墨付きを与え、聖徳太子を暗殺させるよう巧みに仕向けた。
蘇我氏にしても、次第に言うことを聞かなくなった理想主義者に手をやいていたのだろう...
推測でしかないが、そんな理由もあり蘇我氏は二つ返事でこの仕事を引き受けた...
のではないだろうか。
例えば、このような筋書きを反蘇我派が描いたとしても、何の不思議はない。
そして後年、入鹿を裏切って暗殺し、朝廷の陰謀を抹殺するために聖徳太子さつ害事件の真相を闇に葬ったということになる。
BEST TIMES 「蘇我氏と蘇我系の皇族を陥れた中大兄皇子と中臣鎌足」
「聖徳太子は誰に殺された」 関裕二 著
聖徳太子の因縁
時代背景を鑑みると、聖徳太子の死には藤原氏や蘇我氏の影が濃厚に漂っていることがわかります。ここに因縁の原因があるのではないでしょうか。
そして、上宮一族を全滅に追いやった藤原氏への恨みが怨念となったのでしょうか?この時代には、まだ怨霊騒ぎはありませんでしたし、ご本人さまも否定されています。
奈良時代には、まだ怨霊を恐れる認識はありませんでした。祟りや物の怪が登場するのは藤原氏による政権の独占、すなわち他氏族排除が露骨になる9世紀以降のことでした。(注1)
怨霊とは、敵対勢力が仕掛けてくる呪術による攻撃ではないかと推測しています。不遇の死を遂げた高貴な者の名を騙り、呪術戦を仕掛けているのです。そんな気がしないでもありません。
しかし、理由はともあれ聖徳太子は夢殿に封印されてしまったのです。
光背が呪詛によるものであるか否かは意見が分かれるところですが、457mもの布でぐるぐる巻きにされ200年間封印されていたことは事実です。
そして、法隆寺の僧侶がその怨念を恐れて、拝むことすらできなかったという事実もあります。
注1:光背が呪詛
『隠された十字架』をめぐって(1/2ページ)
早稲田大名誉教授 大橋一章氏
因縁の解消方法
因縁の解消を行うためには、その元となった原因を調査して明らかにする必要があります。本来であれば、自身でいろいろと調べなければいけないのですが、このテーマにぴったりの動画を見つけることが出来ました。
今回ご紹介しました動画は、ほんの一月ほど前にネット上に挙げられていました。こうしたところに、シンクロニシティーを感じます。
10年ほど前までは、聖徳太子は架空の存在であると教科書にも書かれていました。
最近、こうした状況に対して、反旗を翻すかのような意見が出されてきているのです。日本の本格的な再生が始まっている気がします。
次回は、聖徳太子が行った善政についてご紹介いたします。こうすることで、聖徳太子の復権を行うのです。これも、封印解除の行為のひとつになります。
読者の皆様が当ブログの記事を読まれることが、聖徳太子の因縁の解消と封印解除に繋がります。そのため、ブログを書き綴っています。
前々回の記事で最後かと考えていました。しかし一昨日未明、聖徳太子の案件が浮かび上がってきてしまいました。この課題、まだ終わりそうにありません。
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