ののの備忘録

『日月神示』の解読と来るべき『ミロクの世』に向けた提言。「神一厘の仕組み」と「テンバガー投資法」

聖徳太子の正体

聖徳太子の正体は蘇我入鹿 (善徳) 。

聖徳太子は大王 (おおきみ) 。

聖徳太子暗殺の実行犯は秦河勝

天武天皇の父は聖徳太子

 

聖徳太子蘇我入鹿

聖徳太子の封印解除

 『宇迦之御魂大神さまの課題』の最後の記事を書いた後、聖徳太子に関して微妙な違和感を感じていました。直感に過ぎないのですが、厩戸王 (うまやとおう) に存在感が感じられなかったのです。

 

 中臣鎌足蘇我氏の謀略で暗殺されたとされる聖徳太子や、蘇我入鹿に追い詰められ、一族郎党が自死したとされる山背大兄王 (やましろのおおえのおう) の物語にしても、何かしら不自然な感じがぬぐえなかったのです。

 

 この違和感の正体を探るべく書棚を漁ったところ、以前購入した数冊の書籍が見つかりました。歴史小説家 関裕二氏の本です。購入し流し読みをして、そのまま積読されていた書籍群です。

 

聖徳太子は蘇我入鹿である

聖徳太子は誰に殺された

天武天皇 隠された正体

藤原氏の正体』他

 

 これらの書籍をじっくりと読み返したとき、『あ~、そうだった』と記憶が蘇ったのです。違和感の正体がこれだったのです。これらの書籍は、次の秘密を解き明かしているのです。

 

 聖徳太子 = 蘇我入鹿蘇我善徳)

 聖徳太子 = 聡耳皇子 (とみみのみこ)

 聖徳太子厩戸王 (うまやとおう)

 聖徳太子 = 大王 (おおきみ) 

 

 聖徳太子の暗殺の実行犯 = 秦河勝

 秦氏藤原氏の縁戚となり平安時代まで勢力を伸ばした

 

 天武天皇聖徳太子の子

 天武天皇 = 古人大兄皇子

 

 藤原氏百済王家の末裔

 中臣鎌足は最後の百済義慈王の王子 扶余豊璋 (ふよ ほうしょう)

 

 最後の一本の記事をなぜ書いてはいけないのか、その理由が解りました。どうやら、この記事を書かせるために、時間を置いてじっくりと書籍を読み返す時間が与えられていたようです。

 

 『聖徳太子蘇我入鹿である』この事実が、聖徳太子の存在を隠すための最大の封印となっていたのです。やはりこの課題は54本の記事を書くことで完結するように出来ていたのです。

 

 

出雲王朝と九州王朝

 1世紀中ごろ、出雲の出雲王朝と日向の九州王朝が和合し、倭王権が誕生しました。

 

 当初の約束では、統治王には出雲王朝の男子が就任し、后妃である祭祀王には出雲系の女子が就任する事と成りました。また、政治の実権は祭祀王の眷属が握ることとされていたのです。

 

 しかしその後、出雲王朝と九州王朝の連合国家は、対外政策の違いから次第に分裂し始めます。九州王朝は百済と親密な関係にありましたし、出雲王朝は新羅との縁がありました。

 

 百済王朝は九州王朝に関係者を送り込み、ある種の利権を有していたのです。そのため、出雲王朝との和合に当初から反対の立場にあったのです。彼らをアマテラスの義弟たちと呼びます。

 

 百済王朝の関係者たちは、九州王朝と出雲王朝の和合が成立すると、出雲王朝と全国の主要なパワースポットに呪を仕掛けたのです。日本の国力に足枷を架したのです。

 

 九州王朝と出雲王朝は大和の地で和合し、統一国家を築きます。しかしその後、アマテラスの義弟たちの暗躍により、次第に九州王朝と出雲王朝の間に軋轢が生じ始めるのです。

 

 

二朝相克の時代

 10代崇神天皇は、任那から呼ばれてきた騎馬民族系の大王です。回帰系の帰化人であり九州王朝よりの大王でした。

 

 そして、15代応神天皇新羅経由で回帰してきた出雲よりの大王でした。崇神天皇の時代から継体天皇の時代までは、九州王朝と出雲王朝の相克の時代でした。

 

 6世紀初頭に、出雲系の豪族尾張氏の協力を得て皇位を継いだのが、応神天皇の五世孫に当たる継体天皇でした。また、継体天皇の生地は蘇我氏一族の土地でした。

 

 継体天皇は、即位からおよそ20年後大和入りします。大和にいた九州王朝の勢力を一掃するまで時間が掛ったのです。その後、大和で出雲王朝が単独王朝として復活したのです。

 

 そして、7世紀中ごろの大化の改新で再び九州王朝が蘇ります。この王朝を支えたのが藤原不比等でした。不比等の父である中臣鎌足 (なかとみのかまたり) は、百済王朝の王子 豊璋 (ほうしょう) でした。

 

 大化の改新後、しばらくの間は二朝並列時代であり、九州王朝と出雲王朝、それぞれに大王(おおきみ)が存在したのです。

 

 

神道と仏教の宗教戦争

 この時代、当初の出雲王朝と九州王朝との間で交わされた約束事が破られ、出雲系の蘇我氏の大王と出雲系の物部氏の后妃が誕生したのです。その皇子が聖徳太子でした。

 

 蘇我氏の統治王が蘇我馬子であり、物部氏の祭祀王が物部守屋の妹でした。蘇我氏物部氏は、出雲王朝の王家の血筋を引いた豪族だったのです。源氏や平家が皇族の血筋を引いているのと同じことです。

 

 仏教を取り入れるにあたり、物部神道の守護者である物部氏と、仏教建築や仏像の建造に利権を持つ蘇我氏との間で多少の軋轢がありましたが、日本書紀にあるような戦闘行動はなかったのです。

 

 物部氏蘇我氏神道と仏教に関わる戦闘の物語は、日本書紀の作者による明らかな創作です。聖徳太子が刻んだ四天王の物語など、まさしくSFファンタジーでしかありません。

 

 戦闘行動中に、戦闘の指揮者でもあったはずの聖徳太子に、果たして仏像を刻むような暇があったのでしょうか?はなはだ疑問です。

 

 

架空の存在山背大兄王

 その後の神仏習合の歴史を鑑みれば、神道と仏教の宗教戦争が、命を懸けた骨肉の争いまで進展しなかったであろう事は容易に想像つくかと思うのです。

 

 物部氏蘇我氏の争いは、正史から物部氏を消し去るために造られた歴史的なSFファンタジーだったのではないでしょうか。

 

 その後、聖徳太子とその子である山背大兄王 (やましろのおおえのおう) の一族郎党の殺害の罪を蘇我入鹿に着せて、蘇我氏を歴史から葬り去ったのです。これが、日本書紀の作者のやり口なのです。

 

 山背大兄王は日本書記作者の明らかなる創作です。聖徳太子蘇我入鹿であれば、山背大兄王とその一族郎党の殺害は子殺しとなります。

 

 ツキヨミさまがアマテルさまの妻であり、自らの子であるハナコさまを殺害したと同じ罪となります。

 

 また、厩戸王 (うまやとおう) の名とその出生の秘密には、イエス・キリストさまの物語が彷彿とされます。このあたりに原始キリスト教徒であった秦氏の関与が感じられます。

 

 山背大兄が、自身の死を以て他者に害を及ばすまいとする高邁な聖者らしき言葉を吐いて自死するのですが、突っ込みどころ満載なSFファンタジーでしかありません。

 

 一族郎党15名から23名の命が奪われているのですから、自分一人の命で贖えることで収まらなかったのです。

 

 また、このような行動は仏教者の取る行いではありません。その背景に流れている思想は、どちらかといえば儒教的なのです。

 

 また、当時は子供は母方の実家で育てられるのが普通でしたから、一族郎党が斑鳩の宮に集まっているはずはないのです。

 

 このあたりは、日本書紀作者の明らかな設定ミスであり手抜きです。ここではあえてこれ以上の指摘しません。興味のある方は関裕二氏の書籍をお読みください。

 

 

秦氏の神謀り

 聖徳太子の末裔である山背大兄王一族、上宮家を滅ぼしてしまった極悪非道の大罪人蘇我入鹿を、乙巳の変で討伐した正義の味方は、中臣鎌足中大兄皇子です。

 

 いやもう少し考えましょうよ。水戸黄門ですか?勧善懲悪の物語に慣れ親しんだ現代人を騙せませんよ。

 

 日本書紀は、文化が成熟した時代に明らかな嘘がばれることを想定して書かれた書物なのかもしれません。そのように、ここかしこに暗号が散りばめられている気がします。

 

 秦氏の祖であるツキヨミさまの罪をソサノヲさまと素戔嗚尊さまに全て被せて、歴史から葬り去った手法と全く同じです。相変わらず悪趣味です。

 

 日本書紀の記述から品性に問題のあると推測される中臣鎌足と、九州王朝の代表者と目される中大兄皇子、このお二方に秦氏も関りを持ってしまったのでしょうか?

 

 日本書紀の編纂事業を立ち上げたのは天武天皇ですが、最終的にその編纂に関わったのは、九州王朝の末裔 天智系の天皇である持統天皇と、その寵愛を一身に受けていた、百済王家最後の王子 扶余豊璋 (ふよほうしょう) こと中臣鎌足の息子、藤原不比等でした。

 

 この日本書紀の編纂に関わり、ツキヨミさまの罪を全て素戔嗚尊さまに被せ、素戔嗚尊さまを貶めた秦氏は、天智天皇持統天皇、扶余豊璋とその息子藤原不比等と同じ穴の狢であるということが推測出来ます。

 

 また、東国に街を築いた秦氏は、出雲王朝に与していたと考えられます。秦氏内部でも、九州王朝派と出雲王朝派、そのほかの派閥と分裂していたと考えられるのです。

 

 つまり、秦氏には出雲系に連なる光サイドと、九州王朝と百済王朝に連なる闇サイド、政治から距離を置き、一族の繁栄を求める陰の存在がいるということになります。

 

 狐のお面の秦氏は『いよいよ、神謀りが始まった』と云います。いよいよ、秦氏の悪しき一面が公開されてしまう時を迎えてしまったのではないでしょうか?(注1)

 

 祓戸大神さまたちの封印も解かれていますし、復活された伊弉諾尊さまや伊邪那美命さまによる神謀りにより、闇サイドの秦氏一族が裁かれる時が来たのだということではないでしょうか?

 

 『聖徳太子は誰に殺された』が出版されたのが2,015年です。その時からすでに秦氏の悪行は暴かれていたのです。2,015年は、複合神社三角陣封印結界の解かれた年です。

 

 

注1:神謀りが始まった

www.youtube.com

 

 

出雲王朝の政略

 出雲王朝と九州王朝が統合されていた時代、万系一世という概念がありませんでしたし、祭祀王が統治王の上に置かれていた時代でもありました。

 

 出雲系が目指した政略は、対外事情を鑑み東アジア共通の先端文化である仏教を取り入れ、大陸に発生した統一国家と対等の関係を築き、最新の技術と文明を取り入れることでした。

 

 これに対して、既存の権力基盤を守るために行動していたのが九州王朝であり、アマテラスの義弟たちと呼ばれる、九州王朝の利権に群がる権力者たちでした。百済王朝の末裔たちです。

 

 7世紀の白村江の戦い (はくすきのえのたたかい) に敗れた百済の王族と役人たちは九州王朝に合流します。その後、出雲王朝から倭王権を取り戻した新たな王朝は、九州王朝と百済王朝の連合国家となったのです。

 

 百済王朝の人々が、アーリオーンの云う『アマテラスの義弟たち』にあたります。これ以降、出雲系の豪族たちの歴史は隠され消されてゆくのです。

 

 出雲族の描いた理想国家の野望は、自らの利権を固持せんとする、九州王朝と百済王朝の旧守派たちによって儚くも打ち砕かれてしまったのです。この計画に加担したのが秦氏だったのです。

 

 新たな律令制のもとで、自分たちの経済基盤が侵されることに危惧を持ったのでしょう。聖徳太子に近しい関係を持っていた側近でもあった秦河勝が、中臣鎌足中大兄皇子の刺客として選ばれたのです。

 

 

2人の聖徳太子

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 聖徳太子は2人います。厩戸王 (うまやとおう) と呼ばれる存在と、聡耳皇子 (とみみのみこ) と呼ばれる存在です。(注1)

 

 聖徳太子の呼び名が多いのは、ここに由来しているのです。その正体を隠すために、日本書紀の作者がつまらぬ工夫を凝らした結果です。

 

 厩戸王 は、用明天皇の第二皇子で、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女 (あなほべのはしひとのひめみこ) です。厩戸王 は、冠位十二階や17条の憲法を発布し、遣隋使を派遣した方ではありません。

 

 本物の聖徳太子は聡耳皇子であり、本名を蘇我善徳 (そがのぜんとこ) と呼びます。別名、蘇我入鹿 (そがのいるか) です。元興寺を建立した方であり、大王でした。

 

 この秘密は、『先代旧事本紀』と『元興寺伽藍縁起并流記資財帳 (げんこうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう) 』を見比べると解るようになっています。

 

 古代の人たちは、当時の権力者であった持統天皇藤原不比等の手によって編纂された勝者の歴史書である日本書紀の嘘を暴くために工夫を凝らしているのです。

 

 宮下文書やホツマツタヱ万葉集にその後が見られます。また、『先代旧事本紀』と『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』にも、彼らの残した秘密の暗号を見て取れるのです。

 

 聖徳太子の父は、蘇我馬子 (そがのうまこ) であり、母は物部守屋 (もののべもりや) の妹である物部鎌足姫大刀自連公 (もののべのかまひめのおおとじのむらじきみ) です。

 

 聖徳太子は、出雲系の大王の血を引く豪族、物部氏蘇我氏の出だったのです。このため、仏教のと神道の共存を図るための方策を練らざるを得なかったのです。

 

 物部鎌足姫大刀自連公は、大大王 (おおおおきみ) と呼ばれていました。物部氏は、饒速日に繋がる王族ですから、祭祀王だったのではないでしょうか。

 

 大大王とは、先の大王の意味であり、現在の大王は他にいるともとれる言い回しです。つまり、大大王には、蘇我善徳 (蘇我入鹿聖徳太子) が当時の大王だとの暗号が秘められているのです。

 

 日本書紀には、蘇我馬子の子として蘇我蝦夷 (そがのえみし) が挿入されています。また、入鹿を蝦夷の子として善徳とは別人であるとしているのです。相変わらず姑息ですね。

 

 

注1:聖徳太子は蘇我入鹿である

関 裕二 (著)

 

聖徳太子の暗殺

 聖徳太子の暗殺を画策したのは、 九州王朝の中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ) と百済王朝の末裔である中臣鎌足 (なかとみのかまたり) でしたが、実行犯は別にいました。(注1)

 

 聖徳太子は大王でしたから、通常は警備が厳しく近づくこともままなりません。乙巳の変 (いっしのへん) に描かれているような状況下で殺害されたのではないのです。

 

 実行犯は、聖徳太子の側近であり、最も信頼がおかれていた人物でした。その名は、秦河勝 (はたのかわかつ) です。

 

 この後、秦氏藤原氏と婚姻関係を結びます。そして、藤原氏秦氏の財力を背景に朝堂に勢力を伸ばします。

 

 また、聖徳太子の側近である物部氏蘇我氏が没落してゆく中、唯一秦氏平安時代まで勢力を維持し続けていたのです。平安時代桓武天皇長岡京平安京の遷都に大活躍しているのです。

 

 日本書紀には、乙巳の変 の直前に秦河勝が『常世の神』を懲らしめるお話が出てきます。この常世の神こそ、聖徳太子を意味しているのです。(注2)

 

 聖徳太子秦河勝の思惑を読み違えてしまったのではないでしょうか?理想主義者故に、言葉足らずであったと思われるのです。

 

 秦氏は、大陸から最先端の技術を持ち込み、時の朝廷に協力しながらも、苦労して膨大な富と経済基盤を築き上げました。

 

 古墳の築造は、金の採掘を兼ねた莫大な富を得る事の出来る土木工事だったのです。土木工事に長けた秦氏の独断場でもあったのです。しかし、古墳時代が終焉し飛鳥時代が始まります。

 

 秦河勝は、聖徳太子の進める新たな律令制度の下、この理想主義者に協力しながらも、一族の経済基盤が無に帰されてしまうのではないかと危惧を抱いていたのでないでしょうか?

 

 そこに、中臣鎌足中大兄皇子が付け込みそそのかした。

 

 秦河勝は、一族郎党の未来を約束され、悪魔と手を組んでしまったのです。そして、日本書紀には秦河勝の所業が『常世の神』の物語により、暴露されてしまっているのです。相変わらず悪趣味です。

 

 

 

注1:聖徳太子は誰に殺された

関 裕二 (著)

 

注2:常世の神:概要

www.weblio.jp

 

日本書紀』によると、皇極天皇3年(644年)、東国の富士川の近辺の人・大生部多 (おおうべのおう) が村人に虫を祀ることを勧め、「これは常世神である。この神を祀れば、富と長寿が授かる。」と言って回った。巫覡 (かんなぎ) 等も神託と偽り、「常世神を祀れば、貧者は富を得、老人は若返る」と触れ回った。さらに人々に財産を棄てさせ酒や食物を道端に並べ、「新しい富が入って来たぞ」と唱えさせた。

 

やがて信仰は都にまで広がり、人々は「常世虫」を採ってきて清座に祀り、歌い舞い、財産を棄捨して福を求めた。しかし、全く益することはなく、その損害は甚大だった。ここにおいて、山城国の豪族・秦河勝は、民が惑わされるのを憎み、大生部多を討伐した。巫覡等は恐れ、常世神を祀ることはしなくなった。時の人は河勝を讃え、

 

太秦 (うずまさ) は 神とも神と 聞こえくる 常世の神を 打ち懲 (きた) ますも


秦河勝は、神の中の神と言われている 常世の神を、打ち懲らしめたことだ)

 

と歌った。

 

 

蘇我入鹿の暗殺現場

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蘇我入鹿首塚

 

 実際に蘇我入鹿が殺害された現場は、飛鳥寺 (元興寺法興寺) の西門でした。ここに蘇我入鹿首塚があるのです。

 

 飛鳥寺の西方には蘇我氏の飛鳥における本拠地、甘樫丘 (あまかしのおか) と豊浦宮 (とようらのみや) があります。

 

 飛鳥寺と甘樫丘の間には大きな広場があり、その広場の”槻 (つき) の木下”では、さまざまな行事が営まれていました。

 

 中大兄皇子中臣鎌足が出会った「蹴鞠の会」もこの広場で行われていたのです。しかし、この当時、蹴鞠は日本に伝えられていませんでした。では、何故蹴鞠なのでしょうか?

 

 「蹴鞠の会」は、秦河勝により切り落とされた入鹿の首を蹴飛ばし弄んだ中大兄皇子中臣鎌足の故事を意味しているのです。蹴鞠は入鹿の首の象徴です。

 

 中臣鎌足にゆかりの深い多武峰 (とうのみね) の談山神社 (たんざんじんじゃ) に伝わる「蹴鞠祭」があります。これは、中大兄皇子中臣鎌足の出会いの故事にちなむ儀式です。

 

 当然のことながら、この蹴鞠の鞠は入鹿 (聖徳太子) の首を象徴しているのです。おぞましい儀式ですね。相変わらず悪趣味です。

 

https://d340eiag32bpum.cloudfront.net/img/post/spot/297/29634-u7FY2FJhY7cgxB4GgK7T_lrg_re.jpg   談山神社

 

https://www.sankei.com/photo/images/news/141103/sty1411030005-p3.jpg   談山神社 蹴鞠祭

 

https://r-ijin.com/wp-content/uploads/2016/06/img_0-1.jpg

 談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』(奈良県桜井市) 乙巳の変蘇我入鹿の首

 

 

広隆寺法隆寺

https://asitaaozora.net/wp-content/uploads/2017/11/22b59447d5934e6fed3a30e02e614a09.jpg

 聖徳太子三十三歳像


 秦氏の氏寺、京都太秦広隆寺の本尊は、『聖徳太子三十三歳像』です。この聖徳太子像に対して、秦氏天皇家による鎮魂のための行事と思われる、不可思議な儀式があります。

 

 この聖徳太子像には、大永6年 (1526) に即位した第105代後奈良天皇以来、歴代天皇が即位大礼に着用した黄櫨染 (こうろぜん:淡く赤みがかった茶色) が贈られることになっています。

 

 この装束の色は、天皇以外身に着けることの許されない色なのだそうです。そして、今の聖徳太子像は、今の天皇の御衣を着ているそうです。

 

 即位された天皇即位式に着られた衣装を、その天皇が即位中ずっと身につけています。あたかも、聖徳太子を即位させるかのような儀式です。これは、聖徳太子の怨念を恐れての儀式であろうと考えられます。

 

 このように観てゆくと、法隆寺夢殿に封印されていた救世観音像の呪いのお話もあながち間違ってはいないのではないかと思われるのです。厩戸王は呪わないが、聡耳皇子は呪うのです。

 

 『聖徳太子の封印解除』の記事で、『上宮一族を全滅に追いやった藤原氏への恨みが怨念となったのでしょうか?この時代には、まだ怨霊騒ぎはありませんでしたし、ご本人さまも否定されています。』と書きました。

 

 この時召喚し、お話をお伺いした御魂は厩戸王でした。聡耳皇子ではなかったのです。厩戸王は、日本書紀編集者の悪辣なとばっちりを受けて聖徳太子に比定されてしまった皇子さまだったのです。

 

 そりゃ、中臣鎌足中大兄皇子に対する恨み辛みがあるわけではありません。『なにそれ、私は知らんがな』という反応でした。しばらくの間悩みました。

 

 

秦氏の没落

 桓武天皇は、百済王の末裔である藤原氏の政権下、天智 (中大兄皇子) 系の光仁天皇百済系の女性の間に生まれた子でした。

 

 桓武天皇は、天武系の聖武天皇の築き上げた仏教の都である平城京を忌み嫌い、長岡京に遷都します。

 

 しかし、長岡京造営中に藤原種継 (ふじわらたねつぐ) 暗殺事件が起こります。秦氏は、藤原種継と婚姻関係を結んでいました。

 

 事件はその他の藤原氏の陰謀だった可能性が高く、秦氏も標的にされたのです。平安京に遷都した後、秦氏は衰退の一途をたどる事と成るのです。

 

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