動画解説2
3:聖徳太子のすごさがわかる。冠位十二階の本当の狙い 15:19
冠位十二階制定の理由
5~6世紀の東アジア勢力図
冠位十二階が制定されるには理由がありました。当時の朝廷は新羅の横暴に手を焼いていました。そのため、上下の身分の差をはっきりとさせるために冠位十二階を制定したのです。
冠位十二階は、冠の色を見るだけで身分の差が一目瞭然と解る仕組みでした。
先ずは、日本人が自らこの制度を取り入れ、身分制度を確立し、新羅などの朝廷の配下にある諸外国にも徹底させたのです。
新羅の横暴
この時代の国は領域国家ではありませんでした。王国です。ですから、領域が広い国が必ずしも大国であるわけではありませんでした。高句麗よりも百済や新羅の方が大国だったわけです。
当時の伽耶 (かや) は、日本の直轄地でした。しかし、新羅が頻繁に伽耶を攻めてきます。そのため征新羅軍を編成しようという議論が沸き上がります。しかし、正規軍を編成するとなると大事です。そのため議論だけで編成に至ることはありませんでした。
推古天皇七年 (599年) 日本に大地震が発生します。百済は日本の朝廷にお見舞いを献上しますが、新羅は日本の直轄領であった任那 (みまな) を攻撃します。
朝廷はすぐに一万の兵を起こして新羅に反撃します。すると新羅王は、すぐに降参して朝廷への服従を誓います。しかし、朝廷が軍を撤収すると新羅は再び任那に侵攻したのです。その後、日本に間諜を送り込むのです。
新羅の討伐
来目皇子 (くめのみこ) を将軍として、2万5千の兵を立てて新羅征伐を図ります。しかし、来目皇子は突然病に倒れてしまいます。そのまま、翌603年に薨御 (こうぎょ) してしまいます。
やむなく来目皇子の兄の当麻皇子 (たぎまのみこ) を同年征新羅軍の将軍にします、ところが、同行した妻の舎人姫王 (とねりのひめおほきみ) が、旅の途中の明石で急死してしまいます。このため、新羅征伐は出来ずに終わったのです。
この原因について、次の2つの見解がありました。
1:新羅の工作による変死。
2:神々が新羅討伐を望んでいない。
こうした問題が起こらないようにするためにはどうしたらよいのか?
問題の解決法
この問題に対して次のような解決策を講じたのです。
1:朝廷に対して朝貢を約束している新羅の皇子を人質に取ります。
2:冠位十二階の制度を設け、身分の違いをはっきりさせました。
新羅は倭国に従属している国家なのだから、倭国の言うことを聞かなければいけないということを分からせるために、603年12月5日に冠位十二階の制度を発布したのです。
服属している他国 (つまり新羅)を責めるのではなく、まずは日本自身が率先して上下の秩序を明確に示すことで、服属国にも襟を正すことを求めようとしてのです。 それが、冠位十二階でした。
十七条憲法
しかし、この制度は日本の流儀に合いません。大事なことは皆で話し合って決めるというのが我が国の大昔からの流儀なのです。
冠位十二階の制度だけでは、秩序は生まれるけれども、我が国の文化が失われてしまいます。そのため、604年4月3日に公布されたのが十七条憲法でした。
一般には「和を以て貴しとなせ」と、仲良くすることを範とする内容の憲法と誤解されていますが、この十七条憲法が主導しているのは、和ではなくて議論による問題解決の励行 (れいこう) なのです。
それを万古不易 (ばんこふえき) の「いつくしきのり (憲法)」として、日本人として大切な心構えというものを十七条憲法として発表していったのです。
4:聖徳太子が作った十七条憲法の本当の意味 22:14
歴史と社会科
戦後、GHQにより日本の教育から歴史教育が除かれました。かろうじて残されたのが、社会科教育の中の歴史的分野でした。社会人としての必要な知識を得るために残されたのです。
本来の歴史教育とは、過去の事象を、事実を元に時系列に沿って何がなぜ起きたのかを知ることです。先の記事で紹介しました、聖徳太子の事績を例に挙げるとすると、次のようになります。
社会科:歴史的分野
594年 仏教興隆の詔
600年 遣隋使
603年 冠位十二階
604年 十七条憲法
607年 敬神の詔
社会科教育の歴史的分野では、暗記中心の勉強となってしまいます。それぞれが起こった背景について学ぶことがないからです。日本史や世界史が暗記物といわれている所以です。
歴史教育では、どのような目的で、これらの事象が起きたのか、その時代背景を理解するところが重要な点となります。
歴史的教育
聖徳太子の事績
1 蛮行をする新羅を冠位十二階で黙らせ
2 遣隋使を派遣して我が国の独立を宣言し
3 上下の調和を十七条の憲法で説き
4 仏教興隆の詔で仏教を振興して数々の寺院を建設し
5 敬神の詔で我が国古来の神道を国の柱とし、
6 神道と仏教の対立に終止符を打った。
十七条の憲法の第一条には、「和を以て貴しとなす」と書かれていますが、実際に何が書かれており、なぜ聖徳太子が十七条の憲法を発布するに至ったのかを知らなければ、歴史を学んだことにはならないのです。
十七条の憲法第一条の解釈
一にいわく、和を以(も)って貴(たっと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。
人みな党(なかま)あり、また達(さと)れる者少し。
ここをもって、あるいは君父(きみやちち)に順(したが)わず、また隣里(となりのさと)に違(たが)ふ。
しかれども上(かみ)和(やわら)ぎ、下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うとき、すなわち、理(ことはり)おのずからに通ず。何事か成らざらん。
和を以(も)って貴(たっと)しとなし、
まず、和が大事ですよ。
忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。
人を呪ってはいけませんよ。
忤:人を呪い殺す道具
一つのテーマについて議論している時に、劣性に成ったからといって、相手に対する誹謗中傷や人格攻撃をしてはいけませんよ。
人みな党(なかま)あり、また達(さと)れる者少し。
みんな主義主張がありますし、それぞれ仲間もあります、また何もかもを分かっているような人などいません。皆自分の利害で動いています。
ここをもって、あるいは君父(きみやちち)に順(したが)わず、また隣里(となりのさと)に違(たが)ふ。
そこで喧嘩になったりすることがあります。
しかれども上(かみ)和(やわら)ぎ、下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うとき、すなわち、理(ことはり)おのずからに通ず。何事か成らざらん。
色々な議論はありますでしょうが、上に立つ人がまずは柔和な態度を取り、下の人の意見を真摯に聞き、しっかりと議論を重ねてゆけば、何事も成されるのです。そういう国を作っていきましょうよというのが、この条文なのです。
5:【オリジナル】四文字熟語で分かる十七条憲法 31:52
第一条「以和為貴」和を持って貴しとなす
第二条「篤敬三寳」あつく三宝(仏法僧)を敬え
第三条「承詔必謹」みことのりを受けては必ずつつしめ
第四条「以禮為本」うやまうことを根本とせよ
第五条「絶餮棄欲」むさぼりを絶ち欲を棄てよ
第六条「懲悪勧善」悪をこらしめ善を勧めよ
第七条「人各有任」人各々任あり
第八条「早朝晏退」朝早く出仕し遅くに退せよ
第九条「信是義本」まことはことわりのもとなり
第十条「絶忿棄瞋」心の怒りを絶ち表の怒りを棄てよ
第十一条「明察功過」功過を明らかに察せよ
第十二条「国非二君」国に二君なし
第十四条「無有嫉妬」嫉妬あるなかれ
第十五条「背私向公」私に背き公に向え
第十六条「古之良典」古の良典を用いよ
第十七条「不可独断」独断不可
解説
第一条「以和為貴」和を持って貴しとなす
まず、和が大事ですよ。皆できちんと議論をしましょうね。議論を交わす相手に対する尊敬の念と敬意が大切ですよ。誹謗中傷や人格攻撃はいけませんよ。
第二条「篤敬三寳」あつく三宝(仏法僧)を敬え
仏教の教えを大切にしてくださいね。仏教の教えを学び、生かしてくださいね。
当時は神道と仏教の間に大きな対立がありました。この対立構造を背景に出された条文です。
第三条「承詔必謹」みことのりを受けては必ずつつしめ
議論を重ねて決定したことについては、それ以上の議論はしませんよ。決定事項には従ってくださいね。これは、民主主義の大原則です。
第四条「以禮為本」うやまうことを根本とせよ
きちんと挨拶をしてくださいね。相手の目を見て挨拶を交わし、その後に頭を下げます。これが、我が国の作法になります。相手に対する尊敬と敬意を大切にして行きましょうね。
第五条「絶餮棄欲」むさぼりを絶ち欲を棄てよ
皆で議論するときに、己の我を捨ててくださいね。欲望を断ってくださいね。皆の事を考えて議論をしてください。あくまでも皆が主役なのですから。
第六条「懲悪勧善」悪をこらしめ善を勧めよ
悪は懲らしめて行かなければなりません。良いことを勧めてゆきましょう。
学校教育について
本来の学校教育の目的は、子供たちが社会人になった時に、本当に胸を張って生きてゆくことが出来る、自分なりに生きがいというものをきちんと見つけることが出来る。そういうものをしっかりと身に着けさせることが本来の教育です。
何が悪で何が善なのか、良いことってどういうことを以て良いことというのか、悪いことっていうのはどういうことが悪いことなのか、そういうことをしっかりと社会人として生きて行くにあたって必要な基本的な知識というものを子供たちに教えるというのが、本来の教育の役割であるはずなのです。
第七条「人各有任」人各々任あり
どんな人にも必ず任務があります。神々から与えられた任務は人それぞれ違います。だから、皆が一緒ではないのです。
第八条「早朝晏退」朝早く出仕し遅くに退せよ
京の都や奈良の都の朝廷は、太陽が昇るころには門が閉められてしまいます。日が昇る前に出仕しなければいけなかったのです。それゆえ、朝廷と呼ばれていたのです。
ねずさんは、この条文に接してから、夜型の生活を改めて、朝型の生活にされたそうです。4時起きだそうです。
第九条「信是義本」まことはことわりのもとなり
約束したことは守りましょうね。
第十条「絶忿棄瞋」心の怒りを絶ち表の怒りを棄てよ
怒りの感情を捨てなさいね。己の正義を決めつけることを止めなさいね。心が怒りで乱されることもありましょうが、目の前の案件を一つづつきちんとかたずけてゆきなさいね。
第十一条「明察功過」功過を明らかに察せよ
察する能力を身に付けてくださいね。これは、鍛えなければ身に付けることのできない能力です。
和歌の文化は、日本文化の根幹にあると云われています。この和歌の文化の根幹が明察功過なのです。察する能力というものは、鍛えなければ中々身に付かないものなのです。
こうした能力を鍛え上げた当時の官僚やエリート層たちが、記紀や古文書、神社配置や神名などのそこかしこに暗号を仕込んでいるのです。後世の方々どうぞお察しくださいね、という私たちに対する伝言です。
第十二条「国非二君」国に二君なし
国のトップは一人ですよ。
どんな人でも役割分担があります。その自分の役割が何なのか、自分の分担と周りの人の分担をお互いに認識して仕事をしましょうね。
第十四条「無有嫉妬」嫉妬あるなかれ
やきもちと妬みはいけないよ。
第十五条「背私向公」私に背き公に向え
あくまでも公に向かって行きましょうね。
第十六条「古之良典」古の良典を用いよ
古典を読みなさいね。古典は、繰り返し繰り返し何度も読むことが必要です。
第十七条「不可独断」独断不可
独断はいけませんよ。皆と議論をしなさい。
十七条憲法は、我々日本人が日本人であるのにあたり、必要な最低限の心得。これが、十七条の条文の中に全て込められているのです。
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