ののの備忘録

『日月神示』の解読と来るべき『ミロクの世』に向けた提言。「神一厘の仕組み」と「テンバガー投資法」

素盞鳴命さまの名誉回復

五度の岩戸閉め

 日月神示の五度の岩戸閉めは次の順番に行われました。

 

1:イザナギさまとイザナミさまの時

2:天照大神さまの時

3:素盞鳴命さまの時

4:神武天皇さまの時

5:仏魔が渡り来た時

 

 今回、最初のイザナギさまとイザナミさまの岩戸が開かれて世界線の大規模な移動がありました。その結果、我が国の歴史も大幅に変わっている可能性があるのです。

 

 そのため、改めて日本の過去の歴史の調査を試みたのです。そして見つけたのが次のブログ記事でした。五里霧中にあった日本の歴史が一気に明らかにされたのです。

 

 作者の西山恒之さまには感謝申し上げます。

 

参考ブログ

邪馬台国は出雲に存在していた!

西山恒之氏

邪馬台国到達|出雲

 

2:天照大神さまの時

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五十黙示録 第二巻 碧玉(あおたま)の巻 第十帖 より

 

 次の岩戸閉めは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、騙(だま)した岩戸からは騙した神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃(そろ)うてお出まし近うなって来たぞ。

 

 

 天照大神さまとは、豊雲野大神さまの事でした。天照皇大神さまとは、ニギハヤヒさま、イエス・キリストさまのことでした。日の大神さまとは、伊邪那岐大神さまのことでした。

 

 しかし、騙した神とは大日孁貴(卑弥呼)さまの事であると理解していたのですが、これは間違っていたようです。

 

 今回、この騙した神の正体が明らかとなったのです。

 

 天照大神武則天


参考ブログ

『改ざんされた歴史認識で1300年も闇の中にある日本』

西山恒之氏 より

改ざんされた歴史認識で1300年も闇の中にある日本

 

②  天照=武則天、天の岩戸の意味するもの

 

この列島の征服を指令した武則「天」の本名は、武「照」で、まさしく天照である。その武則天が、天皇命名者なので、天皇の祖先は天照とされている。その武則天は、自らが即位し聖神皇帝を名乗った。聖「神」皇帝たる「武」則天で、神武である。これらのことは、この列島に今にまで続く天皇のルーツが武則天にあることを伝えている。

 

古事記の中で、最強の神は天照である。しかし、この列島の人々にとって最も尊い神であるはずのスサノオ尊は、天照の弟にされ、まるで妖怪のごとくに忌まわしい姿に貶められた。

 

天照、スサノオ尊、月読命の誕生についての記述があるが、天照とは、武則天を意味していると同時に、東胡・鮮卑族の象徴でもある。同様にスサノオ尊は、匈奴の象徴である。つまり、左目から天照が、右目から月読命、鼻からスサノオ尊が生まれたことが意味しているのは、東胡・月氏匈奴は、全くの異民族ではなく、中東から渡来した民族で、非常に近しい関係にあることを伝えている。

 

そして、天照は、高天原にいるが、スサノオ尊によって高天原が荒らされ、天の岩戸に隠れたとある。

 

このことは、『倭国大乱』で敗北したことを、天照が天の岩戸に隠れたと表現しているのである。

 

そして、再び、唐王朝、つまり、東胡・鮮卑族によって、この列島の支配を取り戻したことを、天照が天の岩戸から出てきて、高天原は再び明るくなったとしている。

 

つまり、天の岩戸の逸話の意味しているものは、東胡・鮮卑族の立場から見て、その支配を奪われると天照が隠れ、支配が復活すると、天照が再び現れるという例え話なのである。従って、高天原とは東胡・鮮卑族の支配権能の及ぶエリアを意味し、天の岩戸とは東胡・鮮卑族の支配の有無を表す比喩なのである。それゆえ、高天原や天の岩戸とは、実際に存在したのではなく、東胡・鮮卑族の支配状態を表現するための架空の概念である。

 

3:素盞鳴命さまの時

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五十黙示録 第二巻 碧玉(あおたま)の巻 第十帖 より

 

 次の岩戸閉めは素盞鳴命(スサナルノミコト)にすべての罪をきせて根(ね)の国に追いやった時であるぞ、素盞鳴命は天下(あめがした)を治(しろ)しめす御役(おんやく)の神であるぞ。天ヶ下は重きものの積もりて固まりたものであるから罪と見えるのであって、よろづの天の神々が積(つ)もる(という)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤ってしまったので、これが正しく岩戸閉めであったぞ、命(ミコト)を荒ぶる神なりと申して伝えているなれど、荒ぶる神とは粗暴な神ではないぞ、暴れ廻り、壊し廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違ひしていて申しわけあるまいがな。このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せんぞ。絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ・ナミ両神が、天ヶ下を治(し)らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。素盞鳴の命(ミコヨ)にも二通りあるぞ、一神で生み給へる御神と、夫婦呼吸を合せて生み給へる御神と二通りあるぞ、間違へてはならんことぞ。

 

 素盞鳴命さまは、当時侵略者の圧政に苦しんでいた人々を解放し、善政を敷いた偉大な英雄だったのです。

 

 

参考文献

『改ざんされた歴史認識で1300年も闇の中にある日本』

西山恒之氏 より

改ざんされた歴史認識で1300年も闇の中にある日本

 


<1>歴史的背景と渡来民族の攻防

 

この列島から人類は誕生していない。つまり、私たちは、大陸からの渡来人の末裔である。

 

①  山戎の渡来・・・福の神

中国最古の地理書とも言われている山海経には、「倭属燕」という記述が残されている。その当時、中国東北部にいた「山戎」という遊牧民族が、紀元前663年、南下して燕との抗争になり、その戦いに敗れたとある。そして、彼らは、燕の支配下に置かれたり、この列島にも逃避してきたことは、以前の投稿でも述べたところである。

 

それまでにも、小規模での渡来はあっただろうが、歴史に残る民族的規模での渡来は、山戎が最初となる。この列島に逃避してきた山戎が、その後も燕との関わりがあったことが伺える。

 

高度な文明を築いていた山戎の渡来は、この列島の人々に大きな福をもたらした。その感謝の思いから、全国におよそ7千社のエビス系神社で今も称えられ、えびす講といった行事も残されている。そのエビス系神社の総本社が、島根半島の東端にある美保神社兵庫県にある西宮神社である。

 

全国のエビス系神社から毎年美保神社に集まり祭りが催される。その地は、彼らの祖先が上陸した地点であり、彼らにとっての聖地でもある。それゆえ、その地は、山戎の都で山都、つまり『やまと』とは、山戎の都を意味する地名で、この列島の古代の都『やまと』は、今の島根半島周辺に存在していた。

 

②  東胡の渡来・・・悲しみと怒り

紀元前4世紀頃、中東から北アジアに遊牧騎馬民族が渡来してきた。東に東胡、オルドスエリアに匈奴、その西に月氏。彼らは、南下し漢民族との抗争を引き起こし、秦の始皇帝は、彼らの南下を防ぐために万里の長城を築いた。

 

その遊牧民族間でも激しい抗争を繰り広げた。

 

まず、紀元前3世紀頃、匈奴と東胡間で激しい戦いが起き、その戦いで東胡の王は殺され、東胡は滅ぼされた。烏桓山に逃げた者は烏桓鮮卑山に逃げた者は鮮卑と呼ばれた。そして、その頃、東胡の一部がこの列島に逃避してきた。

民族的渡来の第2波である。

 

東胡の残党勢力は、山戎の聖地「やまと」を制圧し、出雲エリアに拠点を構えた。そこは、この列島で最も良質の鉄鉱石や砂鉄が産出され、製鉄の騎馬民族にとっては、最良の地であった。彼らは、その製鉄の力でもって次第に勢力を大きくし、在来の人々を支配下に置くようになる。鉄を制する者は国を制する。彼らの痕跡が、四隅突出型墳丘墓にも残されている。

 

この列島が、東胡の残党勢力の支配下に置かれたことは、後漢書からも伺える。

 

 安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。

 

 安帝の永初元年(107)に、倭國王の帥升等が、生口百六十人を献じて、朝貢したとある。107年というと、四隅突出型墳丘墓が巨大化する頃で、東胡の残党勢力が、この列島で支配力を強めていた時期に相当する。

 

 つまり、後漢書に登場している「倭國王帥升」とは、この列島を支配下にした東胡の残党勢力の首領だと考えられる。

 

 だが、彼らは、この列島の人々に福をもたらすことはなかった。彼らの支配は、この列島の人々にとって、大きな怒りや悲しみでしかなかった。そういった支配の過酷さは、「あしなづち・てなづち」が毎年娘を連れていかれるという古事記の記述にも残されている。

 

③  匈奴の渡来・・・八岐大蛇を退治

西暦2世紀頃になると、大陸では、匈奴に敗れた東胡の末裔である鮮卑が強大化し、逆に鮮卑匈奴を滅ぼし、北アジア一帯は鮮卑の支配するところとなる。

 

この頃、匈奴の一部が、それらの攻撃から逃れてこの列島にやってくる。

民族的渡来の第3波である。

 

2013年8月8日、滋賀県高島市上御殿遺跡で、オルドス式銅剣の鋳型が出土した。その鋳型は、中国の華北内モンゴルに分布したオルドス式銅剣の特徴を持ち、オルドスエリアに拠点を構えていた匈奴の勢力がこの列島に渡来していたことの痕跡だと考えられる。

 

匈奴が渡来した頃、出雲エリアは、東胡の残党勢力が拠点を構えていたので、匈奴は、蒜山エリアに拠点を構えた。そこの宮座山には岩座が残っており、その周辺からは大規模な集落跡も発掘された。

 

蒜山は、以前は、日留山と記述されていた。つまり、スサノオ尊や匈奴の勢力であるところの「日」がそのエリアに留まっていたことを意味している。

 

匈奴も製鉄の民族であり、たたら製鉄にあっては、その加工も含めて膨大な木材や炭を燃やす。その木材の重要な供給エリアが、温暖多雨の紀伊半島、つまり、木州、木の国である。そこから、吉備に木材や炭が送られてきた。その木を備える吉備、つまり木備国である。重要な拠点なので、スサノオ尊は、息子の大歳を紀伊半島に送った。その大歳は、大物主として今も三輪山で奉られている。

 

当時の製鉄加工、武器の製造拠点が、備前長船で、今も刀剣の産地として残されている。煙の出ない上質の炭が、備前長船に送られた、つまり、それが備長炭である。木材や備長炭が、紀伊半島から海路で運搬されてくるので、備前長船は、その利便性から海岸近くに位置している。

 

当時、この列島の人々は、先に渡来した東胡の厳しい制圧下に置かれていた。その支配下にある在来の人々とスサノオ尊を中心とする匈奴の勢力は、共同して東胡の圧政を倒そうと大きな戦いに挑む。

 

それが、およそ西暦150年頃から40年間にわたる「倭国大乱」として中国の史書に残された。

 

その戦乱を制したのが、スサノオ尊に象徴される匈奴の勢力だった。このことは、「八岐大蛇」の逸話としても残されている。スサノオ尊が倒した八岐大蛇とは、当時大蛇のごとくに残忍な支配勢力だった東胡の勢力のことを意味している。八岐とは、古事記にもあるように、「本州・四国・九州・対馬壱岐隠岐島・淡路島・佐渡島」の八岐、つまり8の拠点である。この列島全域を支配下にしていた東胡の勢力を、スサノオ尊が在来の勢力とともに駆逐したことが、その逸話の伝えるところである。

 

従って、東胡の勢力の墓である4隅突出型墳丘墓は、これ以降、造られることはなくなった。

 

スサノオ尊が大蛇を切った、つまりこの列島を支配していた東胡の首領を切った刀剣が「布都御魂」として備前国一宮の石上布都御魂神社に奉納され、大蛇の尾から出た、つまり東胡の首領の刀剣が「草薙の剣」として熱田神宮に奉納された。布都御魂は、その後、奈良の石上神宮に移されたと言われている。

 

また、在来の民族や匈奴の立場からは、桃太郎という逸話でもスサノオ尊の活躍を描いている。

 

当時、島根半島は島であり、大蛇のごとくに恐ろしい東胡の拠点は、まさしく鬼ヶ島であった。

 

蒜山や吉備で対抗できるだけの戦力を構築したスサノオ尊や匈奴は、鬼ヶ島に巣食う東胡の勢力、つまり八岐の大蛇という鬼を退治したのである。

 

④  邪馬壹国と邪馬臺国の誕生・・・東胡の圧政からの解放

西暦190年頃、東胡の支配体制を打倒したスサノオ尊は、在来の勢力の象徴である「卑弥呼」を国家的象徴とし、自らはそれを支える実質的支配者とする国家体制を築いた。

 

その卑弥呼の国が「一国」で、スサノオ尊の国が「大国」とされた。つまり、(一)と(大)という文字を合体させると(天)という文字になる。そして、(一)が上で、(大)は下に位置する。スサノオ尊や匈奴の勢力は、この列島を征服した覇者であるが、スサノオ尊は、自らの勢力は、この列島には後からやって来たのだと、あくまで先住勢力を上に称えた。それを国家体制の基本とし、国名としてもその理念を体現化したのである。ここに、国家的象徴『天』が生まれた。

 

また、在来の勢力の中心には、先に述べた山戎がいた。だから、それぞれの国では、その山戎も重要な位置を占め支えていた。それにより、国名は、(山)と(一)で山一国が、一方、(山)と(大)で山大国がここに誕生した。これが、中国の史書に「邪馬壹国」、「邪馬臺国」と記された。

 

その卑弥呼を象徴とする邪馬壹国は、宮崎の西都原に存在した。その壹は、日向国一之宮の都農神社の神紋(一)としても伝えられている。また、卑弥呼の墓は、西都原古墳群の中にある我が国最大の円墳「男狭穂塚古墳」で、卑弥呼は今もそこに眠る。

 

一方、実質的支配者であったスサノオ尊の国が「大国」つまり「邪馬臺国」で、出雲に存在した。臺とは、皇帝の居する場所を意味する。その大国の王が「大国主命」であり、後々にまで引き継がれていった。同様に、出雲にある数多くの神社で神紋(大)が伝え残されている。

 

東胡の残党勢力の恐ろしい支配からこの列島の人々を救ったことで、スサノオ尊に象徴される出雲の神々は、列島各地で大きく称えられ、津々浦々の神社で祀られることとなった。その神社の参道に築かれた鳥居は、国家的象徴である『天』の文字を象ったものだ。

 

そして、その連合国家体制は、大きく発展し、宋書にもあるように、倭の五王の時代、朝鮮半島をも支配下にする。この連合勢力の墓が、前方後円墳であり、朝鮮半島にも築かれた。

 

 西暦190年頃から7世紀にかけて、この列島では豊かで安定した出雲王朝(大国)による治世が続くことになる。当時の官職名は、「徳仁義礼智信」に大小があり、官位12階とも呼ばれる。つまり、人々から厚い信頼を受ける人物がそれらの官職につくことで、多くの人々にとって良好な治世が行われていたと考えられる。人々は、五穀豊穣を祝い、全国に10万社ほどあるとも言われるエビス系や出雲系の八百万の神々を祀る神社で感謝の念を捧げた。

 

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