稚日女尊さまは和歌の神さまです。
和歌に言霊の力を込めていました。
その力を恐れられ日本神話では不具の子として捨てられたとしています。
また、別人の機織り姫のワカヒメさまと入れ替えています。
この小さな嘘が呪となり封印となっていたのです。
第一の結界と第七の結界のまとめ
第一の結界に封印されていたのは次の四柱の神々さまでした。
宇迦之御魂神さま
素戔嗚尊さま
静岡浅間神社に祭られている大国主さまと木花咲耶姫さまの正体は次の通りでした。
第七の結界に封印されていたのは次の二柱の神々さまでした。
磐長姫(市杵嶋姫命)さま
稲荷神社には次の二柱の神さまが表裏一体となって祭られていました。
宇迦之御魂神さま
厳島神社には、次の二神さまが表裏一体となって祭られていました。
磐長姫(市杵嶋姫命)さま
奈良の大仏さまはイエス・キリスト像であることが明らかになりました。
廬舎那仏 = 大日如来 = 天照大神 = イエス・キリストさま
では、他の結界に隠された暗号を観てゆきましょう。
第二の結界
第一の結界 第二の結界 第三の結界 第四の結界
第二の結界には封印の仕掛けはありません。三つの頂点にある神社に関係性のある神さまを祭ることで三四五の結界となしているのです。
三四五の結界は、気の流れをせき止めるような仕掛けが施されていなければ、結界内を大地の気が巡ります。
そして大地の気は、中心部に当たる地域の発展を促すのです。古代の人々は、このようにして結界を張った上で中心部に街を築いたのです。
和歌の神さま
第二の結界の三つの神社の御祭神で、関係性の深い神様は次の通りです。
蛭子大神(ひるこおおかみ)さまは、ホツマツタヱに出てくるイサナギさまとイサナミさまの長女であるワカヒメさまの事を指しています。(注1)
稚日女尊さま
素戔嗚尊さまが和歌の神さまとされているように、ワカヒメさまも和歌に長けた方だったのです。ホツマツタヱには、和歌の言霊(ことだま)を使い、田を荒らす蝗を追い払うなどのエピソードが書かれています。(注2)
また、回り歌を歌いアチヒコ(オモイカネ)の心を射止めたエピソードが出てきます。回り歌とは、上から読んでも下から読んでも同じ歌の事で、回り歌には、言葉を返すことも、返ることも封じて、詠み手の願い事を叶える呪力があるのです。(注2)
素戔嗚尊さまは、「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」という日本初の和歌を詠んだと云われています。
2人のワカヒメさま
ホツマツタヱにはワカヒメさまは2人出てきます。
ヒルコ = ワカヒメ = ワカヒルメ = シタテルヒメ = タカテルヒメ
日本神話では稚日女尊(わかひるめのみこと)さまが登場してきますが、この稚日女尊は、ホツマツタヱのヒルコさまではなくて、ハナコさまです。
日本神話ではまず、『日本書紀』神代記上七段の第一の一書に、稚日女尊が登場します。
高天原の斎服殿(いみはたどの)で神衣を織っていたとき、それを見たスサノオが馬の皮を逆剥ぎにして部屋の中に投げ込んだ。稚日女尊は驚いて機から落ち、持っていた梭(ひ)で身体を傷つけて亡くなった。
それを知った天照大神は天岩戸に隠れてしまった。
『古事記』では、特に名前は書かれず天の服織女(はたおりめ)が梭で女陰(ほと)を衝いて死んだとあり、同一の伝承と考えられるのです。
同様な物語が、ホツマツタヱにもあります。(注3)
ここに出てくるワカヒメさまは、サクラウチの娘でホノコの妹ですから、ヒルコさまとは別人となります。
ヒルコさまがワカヒメ(稚日女尊:沸姫:若姫)さまと呼ばれている理由には2つあります。
1:若姫
押し草と祓いの歌によって、枯れた稲を「若返らせた」ことによる名。
2:沸姫
アチヒコに恋心を「沸かせた姫」の意。
また、和歌はワカ姫の名に因むのだそうです。
ヒルコ
『古事記』において国産みの際、イザナキ(伊耶那岐命)とイザナミ(伊耶那美命)との間に生まれた最初の神。
しかし、子作りの際に女神であるイザナミから先に男神のイザナキに声をかけた事が原因で不具の子に生まれたため、葦船に入れられオノゴロ島から流されてしまう。
次に生まれたアハシマと共に、二神の子の数には入れないと記されている。
棄てられた理由について『古事記』ではイザナキ・イザナミ神の言葉として「わが生める子良くあらず」とあるのみで、どういった子であったかは不明。
後世の解釈では、水蛭子とあることから水蛭のように手足が異形であったのではないかという推測を生んだ。
あるいは、胞状奇胎と呼ばれる形を成さない胎児のことではないかとする医学者もある。
ここで言うアハシマとは、隠された神さまであるヒヨルコ(伊都能売:いづのめ)さまの事を指しています。
ホツマツタヱには、ヒルコについて、次のように書かれています。(注1)
ツクバのイサ宮で生まれる。昼に生まれたのでヒルコ。
3歳になる年、父は42歳・母33歳の陽陰の節に当たり、その汚穢・隈が子に障るというのでイワクス船に乗せて流される。
カナサキ夫妻に拾われ、西殿で育てられる。
ワカヒメさまは、和歌の持つ言霊の力を呪として使う霊能者であったため、恐れられてその存在を隠されたのでしょう。
日本神話には、ヒルコさまもヒヨルコさまも不具の子であるから捨てられたとあります。これが一つの呪となり、隠蔽された神さまの封印となっているのでしょう。
注1:ワカヒメ ヒルコ
注2:ワカヒメの蝗退治 回り歌
『田の東に立ちて 押草に 扇ぐワカ姫 歌詠みて 祓ひ給えば 虫去るを』1文
「はじめてのホツマツタヱ」天の巻 p25 参照
注3:ハナコの死
『ソサノヲ仕業 あぢきなく 罵・頻捲き 穢汚放ち 祈らす御衣の 新嘗の 神御衣織れば 殿穢す』7文
ホツマツタヱについて
2朝分裂時代
ホツマツタヱのアマテルやワカヒメの時代は、およそ3,300年ほどの昔のお話になります。10代目アマカミの時代に、ニニキネとホノアカリの二人のアマカミが立ち、2朝分裂時代へと入るのです。(注1)
これは、渡来人に対応するための措置でした。渡来人の流れ来る九州に、防人(さきもり)としての筑紫の宮(つくしのみや)を設け、畿内の飛鳥の宮(あすかのみや)を本陣とする、陣地の重層化を図ったのです。(注2)
ウガヤフキアエズ王朝は、『ウエツフミ』「竹内文献」『神伝上代天皇紀』などの古史古伝に記載されている神武天皇以前の古代王朝で、火火出見命の子の鵜葺草葺不合命が開いた王朝とされています。(ウィキペディア(Wikipedia)より)
その後、ウガヤフキアエズの時代が51(72)代続きました。同様に、畿内の飛鳥の宮の王朝も長く続いていたのです。この王朝の大王の世襲名がニギハヤヒでした。
古文書の記録
ウガヤフキアエズ朝は、宮下文書は51代とし、ウエツフミでは73代、竹内文書では72代、九鬼文書も72代としています。これを、男系で51代、中継ぎの女系を合わせて72代であると解釈しました。
宮下文書は徐福ら大陸系民族によって手が加えられています。それ故、中継ぎの女帝時代をはずしていると観たのです。また、ウエツフミの73代目は、イワレヒコ(神武天皇)を意味していると解釈したのです。
これは、24(34)代目のミナカヌシがクニトコタチであるのと同様です。ミナカヌシの時代も、男系で24代、女帝が中継ぎをした時代を合わせて34代であると観ることが出来るのです。
しかし、畿内に残された王朝の記録は残されていないのです。ですから、この王朝を仮に香久山(かぐやま)王朝とか饒速日(ニギハヤヒ)王朝と呼んでいるのです。
王朝の統合
やがて、この2つの王朝は、最後のニギハヤヒの時代に統合されるのです。最初にウガヤフキアエズ王朝と和合した日向と、古代出雲王朝から渡来人を追い出し、大王となられた素戔嗚尊さまの出雲とが和合しました。
この2つの連合国の大王となられたのが、素戔嗚尊さまの養子であった大国主さまです。大国主さまはその後、日向に政権を譲り畿内へと向かいます。これが最初の国譲りです。
機内へ入ると、ここでもまた先代のニギハヤヒの養子となり次代のニギハヤヒを襲名します。その後、日向より訪れてきたイワレヒコ(神武天皇)さまに再び国譲りをするのです。
これは、若い時代に日本へと渡ったナザレのイエスさまと、当時のニギハヤヒ王朝の大王(おおきみ)であった、先代のニギハヤヒさまとの間で交わされた約束事であったのではないでしょうか?
国譲りの真相は、古代王朝から連綿と続く天孫族の末裔の血を引く、最後の73代目のウガヤフキアエズであるイワレヒコさまに、統一王朝の初代帝の座を譲り与えたということです。
注1:ホツマツタヱ
今村聰夫 (著) 磐崎文彰 (編集), 緒方徹 (イラスト)
今村聰夫 (著) 磐崎文彰 (編集), 緒方徹 (イラスト)
今村聰夫 (著) 磐崎文彰 (編集), 緒方徹 (イラスト)
注2:陣地の重層化
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ホツマツタヱの隠蔽工作
オホタタネコの改ざん
ホツマツタヱは、1アヤから28アヤまでが前編で第6代オオモノヌシの「クシミカタマ」の編集であり、29アヤから40アヤは後編で「オホタタネコ」(大田田根子)の編著によるとされていてます。
オホタタネコの編集による29アヤは、「タケヒト大和討ちのアヤ」であり、いわゆる神武東征のお話から始まっています。(注1)
また、ホツマツタエは、崇神朝の天皇である12代景行天皇にオホタタネコが献上したとされています。
ホツマツタエでは、ウガヤフキアエズ(ナギサタケウガヤフキアハセズ)が12代目のアマカミとして一代で記述されており、13代目が人皇となられたイワレヒコ(カンヤマトイハレヒコ)さまとしているのです。
また、10代目アマカミのホノアカリの養子となったニギハヤヒが11代目アマカミに就任したとしているのです。このあたりに何らかの意図的な編集がなされていると推測できるのです。
ホツマツタエのアマカミ系図(注2)
7代目イザナギから10代目まで
7代目:イサナギ
8代目:アマテル
9代目:オシホミミ
10代目:ニニキネ(筑紫の宮)
ホノアカリ(飛鳥の宮)
2朝分裂時代
九州:筑紫の宮
10代目:ニニキネ
11代目:ホオテミ
12代目:ナギサタケウガヤフキアハセズ
畿内:飛鳥の宮
10代目:ホノアカリ
11代目:ニギハヤヒ(養子)
真の覇王の抹消
51(72)第続いたとされるウガヤフキアエズ朝の存在を消し去るためなのか?古代出雲王朝の存在を消すためなのかは分かりませんが、ホツマツタヱが神代文字で書かれた古文書であったとしても、決して全てが正しいとは限らないのです。
おそらく、大和王権の正当性を強調するために、全国の統一を果たした出雲の素戔嗚尊さまの存在と、大国主(イエス・キリスト)さまの存在を消し去るための措置だったのではないでしょうか?
この両神(ふたかみ)さまが古代における真の覇王だったのです。その後の葛城王朝から政権を譲り受けた、半島系の騎馬民族の末裔である大和王権の崇神朝としては、真の覇王たちの存在を消し去りたかったのではないでしょうか?(注3)
しかし、さすがにニギハヤヒの存在は消し去ることが出来なくて、29アヤでは、ニギハヤヒがタケヒト(イワレヒコ)に帰順し、二系統に分かれていた日神の後裔が、再統一されたと書かれているのです。(注4)
崇神朝の景行天皇に忖度(そんたく)したのか?そのように書き換えるように、朝廷側から要請されたのかは分かりませんが、オホタタネコはこのように歴史を改ざんしたのだと推測します。
宮下文書の改ざん
これは、他の古文書でも同じことがいえるのです。富士王朝に関する宮下文書にも、明らかな校正の跡が見受けられます。藤原物部麻呂という謎の人物が幾度か手を加えていたようです。(注5)
もともと、3種類の神代文字で書かれていた古文書を、徐福とその末裔たちが編集して漢字の文書に書き換えているのです。
その際に、ちゃっかりと大陸から技術を持ち込んだとする徐福たちの影響力を強調しているのです。「神皇記」を読むと、このあたりがとても鼻につくのです。胡散臭いのです。
注1:29アヤ「タケヒト大和討ちのアヤ」
注2:ホツマツタエ系図
注3:真の覇王
注4:二系統に分かれていた日神の後継が再統一
はじめてのホツマツタヱ 人の巻 p39 より
父親の名「クニテル」からアマテル大御神の御神意を感じ取って、天神の正当である自分に帰順したというニギハヤヒの忠誠を、タケヒトは本物と認め、心を許し慈しまれました。
注5:宮下文書
御穂神社の大国主さまについて
オオモノヌシさま
以前の記事で、「静岡市清水区にある御穂神社には、大国主さまと三穂津姫命(みほつひめのみこと)さまが相殿に祭られています」と書きました。(注1)
美穂の松原に降り立った天女さまに付けられた三穂津姫命の名前は、ホツマツタヱに出てくる二代目オオモノヌシ(クシヒコ)の妻であるミホツヒメ(フリマロの娘)から採られているようです。
ややこしくなるので、これまでは、ホツマツタヱについては言及してきませんでしたが、ホツマツタヱに出てくるオオモノヌシさまは四名いらっしゃいます。
オオモノヌシはソサノヲの末裔です。ソサノヲは、出雲の英雄である素戔嗚尊さまとは、まったくの別人です。記紀では、ホツマツタヱのソサノヲの悪行を素戔嗚尊さまの悪行として貶めているのです。
ここでは、オオモノヌシ = オオクニヌシ としてオオモノヌシの系図を観ています。オオモノヌシも大王(おおきみ)に与えられた称号です。
ソサノヲとオオモノヌシの系図
ソサノヲ
初代 オオモノヌシ(オホナムチ)妻:タケコ(アマテルの娘)
二代 オオモノヌシ(クシヒコ) 妻:ミホツヒメ(フリマロの娘)
三代 オオモノヌシ(ミホヒコ)
四代 オオモノヌシ(カンダチ)
大己貴命さま
初代のオオモノヌシの名がオホナムチです。御穂神社の御祭神は大己貴命(おおあなむちのみこと:大国主)さまです。
大己貴命の名は、古代出雲王朝の主王の世襲名である大名持(おおなもち)から採っていると観ることも出来ますし、ホツマツタヱの時代の初代オオモノヌシの名であるオホナムチからとっていると観ることも出来るのです。
古代出雲王朝の主王の世襲名が大名持(おおなもち)で、副王の世襲名が少彦(すくなひこ)でした。
大国主さま
大国主の名は、古代出雲王朝の第八代目大名持、八千矛(やちほこ)王(大国主)から採っているのです。
同じく御穂神社の御祭神 三穂津姫命さまは、二代目のオオモノヌシ(クシヒコ)の妻神です。初代オオモノヌシ(オホナムチ)の妻神はアマテルの娘タケコ(奥津島姫)です。
そして、古代出雲王朝第八代目大名持である大国主(八千矛王)の妻神は、宗像三女人の三女 多岐都比売命(たぎつひめのみこと)さまでした。
呪としての「嘘」
ですから、夫婦神ではない大己貴命(大国主)さまと三穂津姫命さまを相殿で祭ることにより、ここにも「嘘」がありますよ。とそこに何らかの暗号が「呪」として秘められていることを示唆しているのです。
ここに仕掛けがあるのです。大己貴命と三穂津姫命は、ソサノヲの末裔から名を取っていますが、まったくの別人ですよという暗号が秘められているのです。
ソサノヲの時代と、古代出雲王朝の時代、そして出雲の素戔嗚尊さまの時代と3つの時代の人物の名が、神社の御祭神の名としてギュッと凝縮されているのです。ここがややこしいところです。
異なる3つの時代
ホツマツタヱのアマテルの時代は、紀元前13世紀頃のお話です。古代出雲王朝は、紀元前5世紀ころから始まり、大国主の時代は紀元前3世紀頃です。そして、出雲の英雄素戔嗚尊さまの時代は紀元1世紀頃です。
このようにして、八咫烏さんたちは、複合神社三角陣封印結界のそこかしこに暗号を隠しているのです。これを読み解くことで、隠された秘密が浮かび上がってくるのです。
tukishiro-art-lab.hatenablog.com
神代文字について
正史と秘史
神代文字には、正史を綴るために持ち入れれた文字と、帝(みかど)一代限りに用いるれた文字との2種類あるのではないかと推測しています。(注1)
豊国文字は、ウガヤフキアエズ王朝の歴史を綴る上記(うえつふみ)に使われています。ヲシテ文字は、古代王朝の歴史を伝えるホツマツタヱに使われています。
ウガヤフキアエズ王朝は、渡来人に対応するための防人(さきもり)としての王朝でした。そのため、渡来系の間諜に対する防御策として、帝が代替わりするごとに文字を変えていたのかもしれません。
帝一代限りの神代文字は、渡来系人族の間諜に知られてはいけない極秘情報の記録を残すために使われたのではないでしょうか?
そのため、数々の神代文字の記録は残されているのですが、これらの文字を使って書かれた正式な歴史文書は未だ発見されていないと言われているのです。
外交文書としての正史
上記(うえつふみ)はウガヤフキアエズ王朝の正史ゆえ、渡来系民族の間諜に知られても良い情報を記録したものと考えられます。むしろ、ウガヤフキアエズ王朝の正当性を誇るべくして書かれていた文書であったのかもしれません。
これは、日本書紀が大陸系国家を意識して書かれた外交文書であったのと同じ関係です。古事記は国内向けの文書ゆえ、嘘は半分ほどですが、日本書紀は外交文書ゆえに嘘が八割ほど込められていると言われているのです。
豊国文字
これに対して、ホツマツタヱを記述したヲシテ文字は、古代王朝時代からニギハヤヒ王朝に至るまで、正式な文字として連綿と受け継がれてきたのではないでしょうか?
それゆえ、ヲシテ文字で書かれた歴書であるホツマツタヱやミカサフミ、フトマニには、古代の日高見国(ひたかみこく)や富士王朝、白山王朝時代に関する記録が残されているのです。
ヲシテ文字
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