ののの備忘録

『日月神示』の解読と来るべき『ミロクの世』に向けた提言。「神一厘の仕組み」と「テンバガー投資法」

素戔嗚尊の正体 2

岩戸隠れ神話は、祭祀王と統治王を兼任する太陽神伊都能売神皇が皇位を弟のアマテルさまに譲り大陸に渡られたことが元です。

 

この時はまだ、瀬織津姫さまは祭祀王ではありませんでした。そのため、一時的に祭祀王不在となり、世界が暗闇に包まれたのです。

伊都能売神皇とスサノオ

天の岩戸の謎

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 天の岩戸伝説

 

 前回の記事で、「ホツマツタヱのソサノヲの物語は、出雲の英雄 素戔嗚尊(すさのおのみこと)さまと磐長姫(いわながひめ)さまを貶めるための創作ではないのか?」という疑問を提示しました。

 

 宮下文書(みやしたもんじょ)のスサノオについての記述は、ホツマツタヱの記述に比べれば、はるかに現実味を帯びています。しかし、このお話の中にも創作の香りが漂う場面があります。

 

 太陽神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)が隠れ、世界が暗闇に包まれた「岩戸隠れ」の伝説について描かれた場面です。宮下文書では、天照大御神は女神として描かれています。

 

 ホツマツタヱにも同様の記述がありますが、統治王であるはずのアマテルが、敵の脅威を恐れて身を隠し、一人身の安全を確保するなど本来あってはならない行動です。

 

 このあたりに、何かしらの隠された秘密があるはずです。今回は、スサノオのもう一つの物語を辿りながら、岩戸隠れの伝説に隠された真の意味を探り出します。このお話は、あくまでも想像に基づく仮説です。

 

統治王国常立尊

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 造化三神

 

 天之御中世火高見(あめのみなかよほたかみ)15代は、中原の支配者でした。祭祀王が神皇産霊神(かみむすひのかみ)であり、統治王が高皇産霊神(たかみむすひのかみ)でした。

 

 高皇産霊神神皇産霊神は、諡号(しごう)であり世襲名でした。祭祀王である神皇産霊神が主体となり、神聖政治(しんせいせいじ)を行っていたのです。

 

 天之御中世火高見15代目の天之神農氏神(あめのしんのうしのかみ)は、日本の東北地方に回帰し、日高見国(ひたかみこく)を築きます。ここでの祭祀王と統治王の名も、神皇産霊神高皇産霊神でした。

 

 神皇産霊神高皇産霊神の5番目の皇子の国常立尊さまが、日本での新たな王朝の統治王となります。祭祀王は豊雲野尊さまでした。

 

 本来であれば、祭祀王が主体となり神聖政治を行うはずでしたが、新たな王朝では統治王である国常立尊さまが王朝の政(まつりごと)を牛耳る事と成ったのです。

 

多加王の乱

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 スサノオ

 

 国常立尊さまの政は神聖政治ではありませんでした。先祖の神々にお伺をたて、政を行ったのではなかったのです。それゆえ、さまざまな問題が起こりました。

 

 天神7代は白山王朝の時代であり、統治王が主体となり王朝の政を行っていたのです。これは、富士高天原王朝にも引き継がれました。

 

 この事態を知った、世界各地にいた高皇産霊神神皇産霊神の末裔たちが反発します。統治王が王朝のトップに君臨するのであれば、我らにもその権利があるのではないかと。

 

 これが原因で、各地に邪神が台頭したのです。邪神とは、 盤古大神(ばんこおおかみ)と金毛九尾(きんもうきゅうび)、そして大自在天(だいじざいてん)です。

 

 中でも、15代目の高皇産霊神神皇産霊神の曾孫にあたる多加王(たかおう:後の祖佐男命:そさのおのみこと)が、政権奪取のために富士高天原王朝に攻め上るのです。国常立尊さまは、多加王の叔父にあたります。

 

伊都能売神

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 アマテル×トヨケ

 

 統治王の国常立尊さまは、王位を伊弉諾尊さまに譲った後、日高見国に戻ります。ここで、次代の統治王であるアマテルさまを教育したのです。
 
 祭祀王である豊雲野尊さまも、国常立尊さまと同様に、次代の祭祀王の教育を行いました。それが、アマテルの兄であるヒヨルコ(伊都能売:いづのめ)さまでした。

 

 ヒヨルコさまは、アマテルさまとともに、統治王としての教育も受けていました。ヒヨルコさまは男性ではあるのですが、女性の魂を内に秘めていたのです。

 

 ヒヨルコさまの名を速秋津比古(はやあきつひこ)と申すのですが、女性である速秋津比売(はやあきつひめ)の人格を秘めていたのです。一種の二重人格です。独神ともいいます。

 

 速秋津比古と速秋津比売が一体となり、女神 伊都能売となるのです。アマテルカミに先立ち、富士高天原王朝の祭祀王と統治王を兼任していたのが、伊都能売神皇(いづのめしんのう)でした。

 

伊都能売の暗躍

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 豊雲野神

 

 本来の天照大御神とは豊雲野尊さまのことでしたが、次代の天照大御神に就任するはずであった伊都能売神皇は皇位を弟のアマテルさまに譲り、事態の収拾のために大陸に渡ります。

 

 アマテルさまの斎名はワカヒトであり、幼名をウヒルギと申していたのですが、急遽、祭祀王と統治王に就任されたので、名をアマテルと変えたのです。

 

 多加王は、大陸から千数百人の部隊を引き連れ海を渡り、進軍していました。当然後には輜重部隊(しちょうぶたい)が続きます。

 

 多加王を高天原に派遣したのが女帝 音姫さまでした。伊都能売さまは、音姫さまに対して情報戦を仕掛けます。「多加王は、女帝 天照大御神の色香に惑わされ篭絡された」などと...

 

 中原には、かつての王朝が残されていましたから、彼らと合流することで情報戦を大規模に展開することができたのです。戦わずして勝つ。これが、伊都能売さまの戦略だったのです。

 

 この情報を鵜吞みにし、嫉妬にかられた音姫さまは、多加王とその部隊をバッサリと切り捨てます。兵站業務を専門とする輜重部隊を引き上げさせたのです。

 

 多加王とその部隊は、味方の裏切りにより兵糧攻めにあったのです。これが、伊都能売さまが大陸に渡った理由であり、音姫さまをよく観察することで、情報戦による勝利をもたらしたのです。

 

岩戸隠れ伝説

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 岩戸隠れ神話

 

 岩戸隠れの伝説の元になったお話は、太陽神である伊都能売神皇が皇位を弟のアマテルさまに譲り大陸に渡り、アマテルさまが新たな統治王となられたことです。

 

 この時はまだ、瀬織津姫ホノコさまは正妃になられていなかったのです。そのため、一時的に祭祀王不在の時代となったのです。

 

 これが、世界が暗闇に包まれたと表現されたのです。その後、アマテルさまは多加王との戦いで命を落とされます。代わりに統治王を兼任されたのが、祭祀王となられていた瀬織津姫ホノコさまでした。

 

 統治王に就任した祭祀王 織津姫ホノコさまの存在が、岩戸開き伝説となっているのです。多加王を許し、出雲の国を与え、守らせたのが瀬織津姫ホノコさまでした。

 

 この時代以降、渡来系勢力に対抗するために、統治王が王朝の主体となって政を行うように変わります。元々の原因を造られたのが、国常立尊さまでした。

 

 その後、祭祀王が内陣を守り、統治王が前線に出て防人となる二朝分裂時代へと入ります。この時代も連綿と出雲の国は続いているのです。このお話はまた後日。

 

伊都能売と仏陀

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 大自在天


 大陸各地には反乱軍が反旗を翻していました。伊都能売さまが、次に赴いた国がインドでした。ここには、大自在天が神々の棟梁として君臨していたのです。

 

 伊都能売さまが、中原で音姫さまの支配する世の中を観察し、情報戦を仕掛けていた時代の呼び名を、観世音菩薩と呼びます。観音様ですね。

 

 そしてインドに渡り、大自在天の支配する世の中を観察していた時代の呼び名を、観自在菩薩と呼ぶのです。般若心経の冒頭に出てくる観自在菩薩です。

 

 その後、釈迦族の皇子シッタ太子を悟りの道へと誘います。シッタは皇族の地位を捨て、修行の道に入ります。大悟するまで、およそ7年掛ったと云われています。

 

 イエスさまは、17歳の時まで父のヨセフの元で石工の仕事をしていたとされています。(注1)さらに、日本には18歳のころ到着したとあります。(注2)

 

 イエスさまは、およそ12年間で50ある奥義のうち、20までの奥義を習得して故郷に帰ったと云われています。効率的に修行をするには来日する必要があったのです。(注2)

 

 しかし、伊都能売さまは優秀な指導者でもあったのですから、シッタはわざわざ来日する必要がなかったのかもしれません。

 

 

注1:ジョシュア・イマヌエル  キリスト (地上での生涯とその教え)

スティリアノス アテシュリス (著) 須々木 光誦 (翻訳)

 

 

注2:キリストは日本で死んでいる

山根 キク (著)

 

伊都能売伝説

岡田茂吉

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 MOA美術館 円形ホール

 

 伊都能売については、岡田茂吉氏が詳しく伝えています。元々、大本の出口 王仁三郎氏の元にいたのですが、神秘体験を経て大本を離れます。伊都能売について語りたいと申し出たのです。

 

 岡田 茂吉(おかだ もきち:882年〈明治15年〉12月23日 - 1955年〈昭和30年〉2月10日)、日本の新宗教世界救世教の教祖です。

 

 箱根美術館、救世熱海美術館(MOA美術館)などを創設した方です。

 

 ここには、伊都能売に関する岡田茂吉氏の講義内容を抜粋しておきます。(注1)

 

 

注1:岡田茂吉を学ぶ

『文明の創造』宗教篇「伊都能売神(いづのめしん)」(昭和二十七年) 

meshiya.jp

 

伊都能売の渡航

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 補陀洛山上の観自在菩薩 

 

 日本古来の神々は印度へ渡航し、化身仏となられたので、其化身仏の総領が伊都能売神であって、当時日本に於ける最高の地位であられたのである。

 

 処が其頃素盞鳴(すさのお)尊を中心とする朝鮮の神々が渡来され、伊都能売神の地位を狙って犯そうとしたが、容易に応諾されない為威圧や迫害等から進んで、遂に生命に迄も及んで来たので、急遽御位(きゅうきょみくらい)を棄てられ、変身によって眼を外(そ)らし、窃(ひそ)かに日本を脱出し、支那を通って印度へ落ち延び給うたのである。

 

 そうして観自在菩薩の御名によって、当時印度の南方海岸にある補陀洛(ふだらく)という名の、余り高からざる山の上に安住せられるべく、新たなる清き館を建てられた。

 

 此(この)事は華厳(けごん)経の中にある。曰(いわ)く『観自在菩薩は補陀洛山上柔かき草地の上に金剛精座を出来、二十八部衆を随(したが)え結跏趺坐(けっかふざ)して説教をされた云々』とある。

 

観自在菩薩と釈迦

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 菩提樹下の釈迦

 

 当時まだ善財童子という御名であった若き釈尊は、此説教を聴聞して、其卓抜せる教えに感激すると共に心機一転してそれ迄の悉逹(しった)太子という皇太子の御位(みくらい)を放棄し、一大決意の下に、当時紊(みだ)れていた俗界を離脱し、直(ただ)ちに檀特(だんとく)の山深く別け入り、菩提樹(ぼだいじゅ)〔一名橄欖樹(かんらんじゅ)〕の下石上に安坐し一意専心悟道(いちいせんしんごどう)に入るべく、修行三昧(ざんまい)に耽(ふけ)ったのである。この修業の期間に就(つ)いて、諸説紛々としているが、私は七ヶ年と示された。

 

 そうして業成り出山するや、愈々(いよいよ)釈迦牟尼(むに)如来として仏法開示に、取かかられたのであるから、実際上仏法の本当の祖は、日本の伊都能売神であった事は確かである。

 

 そうして今一つ日本から仏法が出たという証拠として見逃し得ない一事がある。それは仏教でよく称える本地垂跡(ほんちすいじゃく)の言葉である。

 

 之は私の考察によれば、本地とは本元の国即ち日本であり、垂跡とは勿論巡跡(じゅんじゃく)教を垂れる事である。

 

 即ち最後に至って、故郷である日本全土に、一度仏の教を垂れると共に、仏華を咲かせ、実を生らせなければならないという密意である。

 

伊都能売と仏陀の姿

 又今一つは観世音の御姿である。

 

 其最も特異の点は、漆黒の素直な頭髪で、之は日本人特有のものである。

 

 それに引換え釈迦、阿彌陀は全然異った赭(あかつち)色、縮毛であるにみても、両如来が印度人であった事は明かである。

 

 又観世音の王冠や、首飾り等も、高貴な地位を物語っており、頭巾(ずきん)を被(かぶ)られているのは御忍びの姿である。

 

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